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「お仕事大好きマン」には美しい花束あるいは突き立てた中指を

 自分でつけておいてタイトルの治安悪い。

 生きていると色々な方から「ありがたいお言葉」をもらうことになる。いつまで経っても記憶に残る言葉もあれば、その時は響いていたはずなのに記憶から抹消される言葉だってある。ご高説くださったにも関わらず右から左……いや重力に従って上から下へと流れていくものだって。重力って言い換えたら地球からの愛だと思う。質量の大きな物や者は地球からの愛をそうでない他者より多く受ける。だから質量の大きな人たちは幸せなのだ。そう思いながらしあわせバタ〜を食べるのをやめられない。

 脱線した。

 そんなシャワーみたいに頭からかかってそのまま汚れを落としながら排水溝に向かって流れ、そのまま下水を通りいずれは海へと戻り、雲となってまた僕たちの頭上に降る雨のように、そんなありがたいお言葉は巡り巡ってまた誰かのやる気を下水へと流してしまいながら循環している。これが社会の断片の一つだと思う。
 先人たちの言葉はいつでも僕たちに教えを与えてくれるとはいうものの、「大きなお世話」というケースも非常に多いと感じることもしばしば。良かれと思って贈与してくれた言葉だったとしても、その相手がその言葉を受容するタイミングによっては夏炉冬扇の如く役に立たないこともあることは言うまでもない。申し訳ないが僕はそんな言葉をもらってもすぐに脳内ゴミ箱に即刻投棄するか、そもそも自分の脳内に侵入させないように聴覚のスイッチを落とす。ではどんな言葉をゴミ箱に捨ててきたか思い出そうとしたけど何一つ思い出せない。だけどこれは当然だった。何故なら最初から受け取ってないのだから記憶にすら刻まれずに投棄された言葉なのだから。しかしそんな言葉を拝受したときのシチュエーションならかすかに記憶している。その一つは僕が目の敵にしている「お仕事大好きマン」に絡まれた時のことだ。
 その日、僕は職場の比較的懇意にしている方から退勤後の食事に誘われた。分厚い牛タンの美味しい焼肉屋に行かないかと。「友達少ないマン」と「誘われたら嬉しいマン」を兼ねている僕は、その美味しそうな誘いを即決した。その後は、心の中はゴールデンレトリバーが全力で広大な野原を駆け回るような多幸感に満たされながらウキウキした気持ちで仕事をしたのを覚えている。その日にするべき仕事を終えたあと、「楽しい焼肉Party Night」の会場をLINEで確認して職場を出た。車に乗り込んだら即座にBluetoothで繋がれたiPhoneでYouTubeを開く。指先でフリック入力した「黒毛和牛上塩タン焼680円」が今日の車内BMGだ。

だぁいすきよ あなたと1つになれるのなら
こんな幸せはないわ お味はいかが?

「黒毛和牛上塩タン680円」 大塚愛

 確かこの時こんな気持ちでこのあと自分と一つになる塩タンを想像して車を走らせていた。我ながら中々にきもちわるい。世間の人に高らかに伝えたいことがある。塩タンってかわいいと思う。存在もだけど言葉の響きが。昨今流行りの"しかのこのこのここしたんたん"を想起せざるを得ない。そうだ!塩タンとは最近見かけなくなったが古のオタクの方々が推しのことを「○○タン♡」と呼んでいるのと同義なのではなかろうか。いやそうに違いない。間違ってもタン塩なんて呼んだらいけない。これでは"ザギンでスーシー"状態なのだから。
 脳内を大塚愛で満たしながら告げられたお店へと突入した僕は「こっちこっち!」という声によって同僚のテーブルを容易に発見できた。他にも何人か声をかけとくと聞いていたのでサシ焼肉ではないことは予想していたが、そのテーブルには同僚と同僚と同僚(=お仕事大好きマン)が座っていた。見間違えたかなと一呼吸置き目を擦りもう一度声のするテーブルを一瞥する。解像度の上がった同僚と同僚と同僚(=お仕事大好きマン)が座っている。「詰んだ…」と自分の口の中でだけ発音した僕はほんのり口元を引き攣らせたまま席へと着いた。

 僕はお仕事大好きマンが苦手だ。焼肉会場にいたお仕事大好きマンだけでなく、この世に蔓延る全てのお仕事大好きマンがダメなのだ。可能であれば駆逐したい。
 ここで言うお仕事大好きマンとは、何も仕事が好きな人や仕事を一生懸命にしている人、自分の仕事に情熱を持っている人のことを指しているのではない。そう言った人たちは僕は好きだ。何故なら自分が仕事嫌いなのでシンプルに尊敬している。仕事にするくらい好きなものがあることや、好きな仕事に就くために努力をしたことは本当に素晴らしいことだと、西日本で一番のへそ曲がりの僕であっても容易に理解できる。普通に憧れる。常に片手間にリクルートエージェントやビズリーチを見ながら従事している今の仕事は、僕が中学生くらいの頃、件の母が「あんたは将来○○(今の仕事)に就けば?」と言ったことで目指すようになった仕事だ。そこで安易に否定すればお母さんヒス構文を言われることはもう予想がついていた上に、その頃にはほぼ思考停止状態で母の意見に従うことが慣習化していたので僕は「じゃあそうする」と何も考えずに、その日から今の職に着くために学校に通っていたということになるのだ。もしこの時、突っぱねていたりしたら果たしてどんなヒス構文が来ていたのだろうか。「へえそうなんだ。その仕事をそんなに否定するんだね。気持ち悪いとか思ってるんだ。その職業と近い仕事をしてるお母さんのことも馬鹿にしてるんでしょ?あんたが気持ち悪いと思ってる仕事で稼いできたお金であんたたち(横に弟もいた)に食べさせるご飯も気持ち悪いですよね。そんな人たちに食べさせるご飯はありません。さっさとどこかに行ってください。」などと言っていただろうか。いやきっとこれを超えてくるはずだ。お母さんという存在は常に我々の予想を遥かに超えてくるのだから。話は脱線したが、そんなこんなで今の仕事に就いたのではっきり言うと好きじゃないのだ。どちらかといえば山にこもって黙々と粘土と向かい合っている方が性に合っている僕にとって、人前に立つ今の仕事はものすごくストレスのかかる日々なのだ。陶芸家のような自分に向かい合いながら作品作りに勤しむ仕事も憧れるのだが、僕はかなり手先が残念なので無理である。あと虫も嫌いなので山もダメかもしれない。昨年、思いついたようにろくろで陶芸をしてみたいと思いついた僕はすぐに陶芸教室に行ったのだが、開始から40分後には縄文人がドン引きするくらい形の悪いコップが出来上がったのだ。見かねた陶芸家の先生が形を修正して焼き上げてくれたため、今も日常使いできるコップになっている。あのままだったら数日のうちにゴミ箱へダイブさせていたことだろう。そんな気質と能力がミスマッチした僕であるため、適職など存在しないのかもしれない。だから比較的安定している今の職業へと誘ってくれた母に手放しで批判することはできないが、まあ好きな仕事と思うことができなかったということは変わらぬ真実である。

夕食で毎晩活躍する陶芸教室で作ったコップ
茶碗は陶芸家の山田隆太郎さんの作品
一目惚れして京都で購入

 そんな僕が苦手な「お仕事大好きマン」とは、自分の仕事に過信し、自分がいかに仕事を頑張っているかを熱弁したり、自分が発見した自分にしか通用しないような微妙なノウハウをあたかも世界の一流ビジネスマンの常識のように汎用的なもののようにすり替えてご高説しながらその暑苦しい思想を押し付けてくる人たちのことである。ノウハウだけだったらまだ許せるのだが、経験則という武勇伝の付録がもれなくついてくる。これがまた長い。そしてその中に登場する自分自身は勇敢で努力家でとにかくかっこいい主人公として極彩色に脚色されている。僕は知っているのだ。そのお仕事大好きマンの知らないところで尻拭いしてくれてる人の苦労を。僕と仲良くしてくれる主任がいた。もともと僕とは異なるチームであったが何かと枠を超えた仕事をその主任とすることが多かったことで仲良くしてくれる存在になった。その主任はお仕事大好きマンと同じチームなのだが、彼の犯したミスの尻拭いをするのはいつもその主任だ。そしてその尻拭いはほぼ誰も知らないところで隠密に遂行され、成果はお仕事大好きマンの力によって結実したものとして周囲に把握されるのだ。控えめで心優しい人であるためそのことを主任は誰にも言いたがらない節があったので僕も特には口外しようとは思わなかった。もうその主任のことは最大限の敬意を込めてムーニーマンと呼んだ方が妥当なのではないだろうか。そんなバックヤードを知っていたため、お仕事大好きマンの高らかなご高説は幻想のように思えてならなかったのだ。その日はフェスのように首を、いや頭部を縦に振りながらずっと「さすがっす!」、「知りませんでした!」、「すごいですね!」、「先輩の力ですね!」、「尊敬します」という合コンさしすせそ(職場ver.)のロイヤルストレートフラッシュをぶちかまし続けた。ちなみに、塩タンは厚すぎて美味しくなかった。和牛とディープキスしているようだ。僕は薄い牛タンの方が好きだったのだ。ちゅっ♡

 お仕事大好きマンがもっと有能で実力に基づいた実績を伴う人であれば嫌厭することなく関われたのかというと、きっとNoである。
 僕の仕事には研修がとにかく多い。新人研修はもちろん、その後も数年おきに研修が実施されるのだ。中学生以降ずっと宿題の意義を疑いながらその場しのぎで指定された提出物を出しながら学生時代を過ごした僕にとって、する意義を見出せないレポートや研究書の作成は苦痛でしかないのだ。それでもとりあえずそれらしいものを作り上げてひとまず提出しておけばなんとかなる系のものだからよかったとも思える。真に僕が苦手なのは集合研修である。
 集合研修では大きなホールを使用して他の部署や支店に配属された200人くらいの同期が集められ、全体講義の後に5名程度に班が組まれグループワークを行う。グループワークは与えられた課題もしくは今自分が直面している仕事上の課題について解決策を討議するといったスタイルで行われることが多いのだが、同じグループに必ず1人はお仕事大好きマンが出没するのだ。焼肉のときのお仕事大好きマンのように彼らは自分の情熱ややる気をとにかく熱弁する。自分がいかにこと仕事を愛し、魂を捧げまでいるかということを。そんなお仕事大好きマンに対してまさに苦虫を噛み潰したような顔をしているのが僕と言う存在だ。恐ろしいことに、お仕事大好きマンは新たなお仕事大好きマンを生み出すようで、討議の口火を切ったお仕事大好きマンに感化されるように他の人たちも自らの仕事ぶりを熱弁するようになる。まるでゾンビ映画だ。ゾンビに噛まれた人はゾンビになる。グループがお仕事大好きマンで満たされつつある中、どれほど他のお仕事大好きマンに熱弁されようとも、薄ら笑顔でその場を切り抜ける僕は非お仕事大好きマン体質のようだ。僕以外みんなお仕事大好きマンになったときもあった。ドラクエⅢで戦士だらけのパーティに何故か加えられた遊び人が「えっと……ボクここのパーティで大丈夫っすか…⁈」と思うような気分になる。もういっそゾンビになって楽になりたい、と言い出す登場人物がゾンビ映画では現れがちだが、まさに僕もお仕事大好きマンになってしまいたいとすら思える時間だ。その後も口々にお仕事大好きマンたちは自らの体験談という詠唱のあとに理想という呪文を唱える。しかし彼らにはMPがない。戦士に呪文は使えないのだ。それゆえ唱えた理想は実現不可能なことばかりで、何ともふわっとした話し合いになり結論がぼやけたままとなる。グループワークの間、僕は隅っこで小さくマホカンタを唱えつつ、早くルーラしたいなと考えているのだ。
 まあさておき、研修に現れるお仕事大好きマンは同期とはいえ、異なるエリアで働いているのもあってどんな仕事ぶりなのか知らない。だから実績を伴った上での熱情である可能性もあることは認識している。なのに何故かそこでも拒否反応が出てしまうのだ。尚、ある日行われたグループワークで隣の班にもお仕事大好きマンが現れて自分の仕事ぶりを自信たっぷりに語っていた。その人の同僚である知人からその空回りっぷりに周囲がヒソヒソされていることを聞いていたので僕はご高説に聞き耳を立てつつ、虚栄心って怖いな、なんて考えていた。
 お仕事大好きマンが苦手な他の理由としてはシンプルに他人の時間泥棒をしてくるのもあるかもしれないな。あいつらこっちがどんだけ忙しくても意に介せず話しかけてくるもんな。一瞬だけコーヒーを飲んですぐに戻ろうと思って寄った給湯室に悠然と佇んでてる。ドア開けて目が合った瞬間「キタっ!」みたいに蟻地獄に落ちてきたムシを捕獲するみたいな目をしてるもんな。ポケモンだったらトレーナー戦だよ。あいつら視界に入ると強制的に対戦だもんな。「お仕事大好きマンがしょうぶをしかけてきた!お仕事大好きマンは自分語りをはじめた!お仕事大好きマンの攻撃は続いている。逃げられない!僕はめのまえが真っ白になった」的な。


 もしかすると僕は彼らの多くは人格的に難のあるとは言えど、お仕事大好きマンたちに嫉妬しているのかもしれない。自分は好きな仕事を見つけられることなく今の職業に流れつき、その魅力を理解できないまま人生を消耗しているも感じるのに対し、彼らはそんな仕事をいかに自分が愛しており、また仕事から自分は必要とされているかを語ることができる。その表情には一点の疑いも迷いもないのだ。素で楽しんでる。きもっ。

 重ね重ねであるが、仕事を熱心にしている人を毛嫌いしているのではない。その熱量をこちらにも押し付けてくるのが嫌なだけである。パクチーやチョコミントが好きなのはいいが、「え?!食べなよ〜!こんなに美味しいのに食べてないなんて、人生損してるよぉ〜!」といって頼んでもいないのにそれらの食べ物を人の皿に置いていく輩と同等だ。許さない。自分が好きなものを食べられないと言われると、人生半分損してるなんて言ってくる人たちなんなんだろう。君の人生の半分はパクチー的なものでできてるの?
 ちなみに僕はパクチーもチョコミントも別に好きでも嫌いでもない。酢豚の中のパイナップルも別に平気。ポテトサラダの中から出てくるリンゴは殲滅したい。

 繰り返すが、個性は誰にでもある。問題は、職業とのマッチングである。それがわかりやすい人はいい。しかし、漠然とした自分の個性が、一体、なんの職業と適合的なのか、なかなか見えにくい人もいる。何かをしたいという気持ちは、身悶えするほど強い。しかし、それが何かがわからない。私自身にも、そうした時期があった。

『私とは何か「個人」から「分人」へ』  平野啓一郎

 この言葉を読んだ時、それはそれは深く鋭利に僕の急所に刺さったように思えた。手先の器用さや美的感覚を持ち合わせない僕は陶芸家に憧れつつも、今日もまた出たくない人前に出て仕事をしているのだ。もちろん、陶芸家の方々が人前に出なくていい仕事だと言いたいわけではないし、手先が器用で美的感覚さえあればできる仕事だとも思ってない。ちなみに本当に陶芸家になりたいわけでもない。頻繁になりたい職業が変わる。カフェオーナーになりたかったと思えば、ショコラティエになりたかったと思ったり、建築家になって美しい建築物を設計したかったと思ったりする。このように時折僕の脳内でオープンするキッザニアの特徴はいつも「○○になりたかった」という過去形のそれなのだ。僕は自分自身と向き合うことを怠り、耐震強度がゼロのアイデンティティを引っ提げて大人へとなってしまったのだ。地震怖いな。南海トラフ来ないでほしい。ちなみに先日の宮崎県沖、日向灘の地震が起きたとき、僕はトイレに座っていた。大きく揺れたわけではなかったが、ぐらりと揺れを感じた瞬間に半ケツのまま被災するのは嫌だなと思ったので、トイレ中には来ないでくださいと祈っている。トイレ中でなくても嫌だけど。
 自分の個性をよく理解して職業選択をすればよかったと、過去を振り返りながら理想的な職業とのマッチングを思い描くのは、もう後戻りをすることはできないと言う現実に対する諦めの現れである。僕は職業とのマッチングについて諦めているだけで、自分自身の人生そのものについては絶望しているわけでない。休みの日にはミスマッチした今の仕事に従事する自分を離れ、料理をしたりお菓子を作ったり、旅行を楽しんだりする自分になれるからだ。

 他方、仕事に不満でも、消費を通じて自分のアイデンティティを確認する方法もある。自分はどんな車に乗っていて、どこのブランドの服を着ていて、拘り抜いたこんな家に住んでいる。これが、自分という人間だ、と。

『私とは何か「個人」から「分人」へ』  平野啓一郎

 そういえば、これまで僕が好きになるドラマはお仕事系ドラマが多かった。「ショムニ」、「花咲舞が黙ってない」、「あぽやん」、「私定時で帰ります」他にもあるが同じ系統だと思う。きっと僕は仕事に対して理想と憧れと、それらに対して現実との大きなギャップを抱いているのだ。きっとこんな僕にも理想はあってそれを捨て切れてはいない。だけど現実と照らし合わせたときに、そこに影のように現れる受け入れがたい事実に辟易しているのだろう。そしてその影を作っているのは自分自身の理想だということも分かっている。だからそんな影を消し去るように生き生きと働いているお仕事大好きマンのことが羨ましいし、それを認めたくないがゆえに彼らを毛嫌いするのかもしれない。そう思うと自分自身の職業観を見つめ直すきっかけを与えてくれたお仕事大好きマンらに感謝を込めて花束を贈りたいところであるが、残念だがここはのし付きの突き立てた中指を贈呈しておく。ここまでずっとこき下ろしておきながら最後に擦り寄るなどという愚かなことはしないのが僕の信条だ。

 余談だが、今の仕事はミスマッチだけど、そこで出会った多くの人たちは大好きだ。ムーニーマン主任とは、お互いに家を訪問するくらい仲良くしてもらっている。焼肉誘ってくれた同僚とは職場が変わった今も遊びに行ったり、それこそ焼肉に行く。その際はもちろんサシである。ふざけるのが大好きな僕を受け入れ、仕事の合間にちょっかいをかけたりだる絡みしても優しく構ってくれるそんな人たちに出会わせてくれた今の仕事に感謝はしているのだ。そんな人たちに大事にしてもらった経験が、今の僕が仕事を辛うじて続けていられている支えなのである。

ふざけてAmazonで買った能面つけて仕事してても
構ってくれる同僚と奥で呆れて笑っている同僚の方々。大好き。


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