障害と言う属性の話
改めましてあけましておめでとうございます。
piraです。
本年もよろしくお願いいたします。
本題
さて、久しぶりにnoteでも書こうかなあと思い、今回番外編を書くことにしました。
今回は障害と言う属性の話をしたいと思います。
今年も元ZOZO社長の前澤さんがTwitterにて100万円をあげる企画を行っていて少し話題になっていますが、
そんな中で参加者のあるツイートが波紋を呼んでいます。
ツイートの内容というのが、発達障害を持った息子が首里城再建を願って書いた絵を載せて、「発達障害がありながらも絵でみんなを元気することを目標にしています!100万円当たったら全額寄付したいと思います!」と言ったもので、そのツイートに対して「発達障害であることを言う必要はあるか?」「障害があることをいう事による優遇を狙っているのではないか?」などといった意見(煽りに近い)が見受けられました。
この件について私が思う事としては、「障害がある」と付け加えることに関しては否定的であったりします。(あくまでも私自身は。)
その理由として一言で言うなら「障害があっても無くても天才は天才」ということなんです。
ものすごく絵が上手い人とかピアノが弾ける人とかは素人目で見れば天才なわけで、そこに障害の有無と言うのは無関係な気がするんです。
そして、障害を持った天才が紹介されるたびに思う事として、「障害があることを強調する理由が薄い」ことが私の中で引っかかるポイントだったりします。
障害があるというからには、「具体的にこういうことで困っている」とか「彼らは社会生活に支障がある」とか障害について分かって欲しいという気持ちがあると思うんです。
しかし、障害を持った天才という風に紹介される場合は障害の事よりかは才能ばかりか注目される印象があると思っています。
これは民放の障害者を題材にしたドキュメンタリーを見れば分かる気がします。(障害の事なんて)ほんのちょっとしか語られていませんから。
障害を持っていれば優遇される?
じゃあ障害を持っていれば優遇されると思われるのはなぜか。
それは、「障害」と言うマイナスのカテゴリを付けることが、「天才」というプラスのカテゴリを持ち上げる要素になっているからだと私は思います。
これはもうメディアとかが作り上げてきたイメージだったりするんでしょうね。
障害者と聞くと「辛い」とか「可哀想」とかってイメージがあって、
そんなマイナス要素をプラス要素に変えるということは普通に比べたら付加価値があるわけで。
その付加価値を考慮したうえで考えろというのが今回の炎上なのだと思います。
今回のツイートに関しても障害があるという事に関しては言わなくても成立するような内容の物だったと思いますし、
100万円欲しさに障害を持った天才みたいな書き方をしたんじゃないかなあと思って見ていました。
さいごに
昨今では24時間テレビが感動ポルノと言われたり、こういった障害を持った天才に対する当事者の嫉妬なんかが話題を集めたりはしますが、
そういった感情が生まれるからには当事者自身が障害によって困っている現状があるからだと思っています。
障害を持った天才が現れ、障害について触れることは良いのですが、障害があるというからには才能ではなく障害の方に目を向けて欲しい
そして障害を持つ人達を後押しする力になり、ゆくゆくは普通に生活できる環境を作ることそれを強く望んでいます。
そのためには才能ばかりに目を向けているんじゃねえよと私は強く思います。
私からは以上です。