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ニュージーランドで2回目の妊娠・中期・人工死産

16週に受けた羊水検査で、悲しくも1歳までの生存率が10%と言われる染色体異常18トリソミーの確定診断が出た我が子。

生まれる前に死んでしまうかもしれない、生まれても数時間で死んでしまうかもしれない、1歳まで生きられたとしてもやはり早い別れは避けられない病気であることなどから、妊娠継続を諦めることにした私たち夫婦は、いよいよ誘発分娩の日を迎えた。

前回のお話はこちら。

誘発分娩(17週5日)

前々日に飲んだ薬の影響か、夜からお腹が張っているような状況だった。

朝の8時に病院へ到着し、部屋に案内され、病院着へ着替えるように指示された。

部屋はシングルサイズのベッドと、シャワー・トイレ、付き添い人用の一人用ソファがある個室だった。日本でも入院したことが何度かあるけど、だいたい病室の雰囲気は似た感じだった。

体調はどうかと聞かれたので、少し吐き気がすることを伝えたら、金曜日に飲んだ薬の影響かもしれないとのことだった。

この日も改めて出産後に何がしたいかを確認され、フットプリントと抱っこがしたい、写真を撮りたいということを伝えた。

最初に採血と、大量出血をした場合に輸血ができるようにルートを通したりをしてる内に嘔吐。つわりなのか薬のせいなのかは不明。

8:40に最初の薬(Misoprostol 4錠)。これはナースにより膣から投与。これが結構痛かった。そこから少しずつじんわりと下腹部が痛み始め、痛み止めのパラセタモルを10時くらいに摂取。

トイレに行くときは、誤って赤ちゃんが落ちないために便器にはめ込む器(オマルみたいなやつ、以下オマル)を使うようにと言われたけど、普通のおしっこやうんちにも使うのは抵抗があったのと、赤ちゃんが出てくる感覚は(流産の経験してるし)きっとわかるはずと思ったので私は使わなかった。出血が始まった場合は出血量確認したいから必ずオマル使ってね、とも言われた。

12:00にMisoprostol 2錠を口から摂取。この口からの薬の摂取は歯茎か舌の下に薬を置いてゆっくり溶かすように指示があり、あまり溶かさず飲み込んでしまうと胃に負担がかかるらしい。痛みがあるので、痛み止めを再度もらい、ベッドの上で軽く眠ったり起きたりを繰り返していた。本などを持って行ったけど読む気になれず、昼食も配膳されたけどあまり食欲がなく、少し食べて吐いてしまった。

15:00くらいに痛みが増したので強めの薬をもらうのと同時にMisoprostol 2錠を口から追加摂取。朝から担当してくれていたナースが退勤時間となり交代となった。実は交代後のナース・サマー(仮名)がベテランで精神的にも実務的にもとても頼りになる人だった。

サマーは普段は出産棟に勤務しているらしく、過去に2回流産を経験していて、「悲しい気持ちわかるよ」「来年は上の病棟(出産棟)で会えるといいね」と言ってくれた。

夫は昼寝したり本を読んだりして過ごしていた。私は会話すらするのがしんどい状態だったけど、ずっとそばにいてくれて良かった。

その後も痛みは徐々に強くなってきていたのでそろそろかと思い続けるも何も起こらず、眠ったり起きたりを繰り返していた。出血も特になし。

流産の時は出血から始まったので、今回も出血から始まるものだと思ってたけど、「人によるけど出産の過程では大体出血しないよ」とサマーに言われた。1月稽留流産の時と同じ薬を飲んでいたので、同じ感じで痛みが強いバージョンだと想像していたけど、違うのか。

あまり時間は覚えていないけど、多分16:00くらいに、どこかから女性の泣き声が聞こえてきた。悲しい、嘆きの声。彼女も赤ちゃんを亡くしたんだろうな、と思った。

17:00頃、昼食は食べられずにすでに下げられてしまったので、持参していたおにぎりを食べた。病院の食事、一口二口は食べてみて、味は悪くはなかったけど、やっぱり食欲ないときはシンプルな日本食に限る。梅干しのおにぎりは食べやすくてよかった。

18:00になり、追加の2錠とさらに強い痛み止めを摂取。歯茎だと時間がかかるので、舌の下に入れて早く溶かそう、と言われたのでその通りにしたら溶かし切る前に飲み込んでしまった。

18時の薬と同じタイミングで夕食が運ばれてきたけど、痛みがますます増してきたため食べる気になれず、痛み止めも全然効かず。痛くないようにあらゆる種類の痛み止めは用意しとくから、と事前に言われていたけど、もらった痛み止めはあまり効いてなかったのか、それとも薬がなかったら本当はもっともっと痛いということか…

サマーのアドバイスで夫に背中をさすってもらうと少し痛みが和らいだけど、「ベッドから起き上がって身体を垂直にした方が陣痛が促進されるかも」と言われても痛すぎて起き上がれる気がしなかった。

夫が夕食を取るために少しの間部屋を空けることになり、「一人で産むようなことになってほしくない」とサマーが言ってくれてその間ずっと一緒に部屋にいてくれたのは本当にありがたかったし嬉しかった。1月の流産の時、薬を飲んで一人で赤ちゃんが出てくるのを待つ間、痛みとともにすごく孤独を感じたから。

18:30頃、18時に飲んだ(飲み込んでしまった)薬のせいか吐き気が出てきて、トイレで嘔吐。そうしている拍子にお腹に力が入ったからか、何か降りてくるような感覚があり、慌てて便器にオマルをはめて座りながらも、予備オマルに吐き続けるという悲惨な状況になった。

とりあえず吐き尽くして、下の方を確認するも、ちょこっとおりもののような何かが出てきただけ。サマー曰く、最初に入れた薬の一部かも?とのこと。あの何か降りてくるような感覚はなんだったのか…

その後、部屋に戻るために立ちあがって手を洗っているタイミングで、あれっという一瞬の気配の後に、透明な水分がびしゃっと出てきた。一瞬の出来事だったし、人生で初めての経験なので何が起こったのかよくわからず、半パニック。

サマーに「破水よ、慌てないで」と言われながら、ベッドに誘導されて、それでも立ったままの方がこのまま出てくるかもと言われたので小声で痛い痛い言いながら待つ。この間もサマーは「You are doing good」「I'm proud of you」「The only strong woman can do this」などとずっと励ましてくれていた。

呼吸の仕方(多分普通なら出産前とかに習うやつ?)を教えてくれて、それでも「痛たたた」とつぶやいている私に、サマーが「あなた静かね、もっと叫ぶ人もたくさんいるよ」と言ってきて二人で笑ってしまった。でも痛すぎて「無理、横になる」と言ってベッドに横になってしばらくして、何か出てくる感覚がきて、すぐに赤ちゃんが出てきた。

小さいからか一気にポロンっと出てきた。

サマーが赤ちゃんを見たときに、「病気のせいで少しユニーク」と言っていた。私もそれは覚悟していたけど、きっと驚かないように一声添えてくれたんだと思う。膿盆(そら豆型のステンレスの器)に白い布を敷いてから赤ちゃんを入れて、私に渡してくれた。

真っ赤で小さくて、でも手も足も5本ずつちゃんとあって。

ただししみじみする間も無く、胎盤を出さないといけない(1時間以内に出さなかったら手術室行きと言われていた)ので、トイレに移動してオマルをはめて、サマーに臍の緒を器具で掴まれながら、push push push! と言われて、もう少しお腹に力を込めて胎盤も排出。

これが胎盤か、とまじまじと見つめていると、「うーん、ほとんど完璧だと思うけど形的に少しまだ中に残ってるかも」と言われつつ「とりあえずまぁ大丈夫ね」ということで(本当に!?とは思ったけど)、やっとベッドに戻れることに。

この後、胎盤が剥がれたからか、出血が始まった。大きな血の塊などが出てきたら教えてね、と言われたけど生理のような血以外は出てこず。胎盤の残りが詰まって血が出てこないと細菌などが発生して危険だと言われたけど、血は出続けていたので大丈夫ということなのか。

最初の薬を摂取してから、赤ちゃんの出産、胎盤の排出まで約10時間かかった。

お別れの時間

改めて横になり、サマーが「足形・手形を取ってくるね!」と言って赤ちゃんを連れて退室。

少しして戻ってきて、手形・足形と出生時間・体重・妊娠週数が書かれた小さなメッセージカードをくれた。とても脆くて、直接抱っこはできなかったので、抱っこできるように可愛い白い布で包んでくれた。

手形については、少し湾曲があるからうまくとれなかったと言っていたけど、足は「見て、こんなにかわいい!」と笑って見せてくれた。本当に小さくて、かわいい手形・足形。

少し湾曲しているけど、かわいい手形

夫は生まれた赤ちゃんを見て、少しショックだったみたい。まだ成長途中で肌が薄かったせいかとにかく真っ赤っかだったし、かわいいか、と言われたら、そうとは言えないという感じだったのは事実。どうしてもセンシティブな人はいるよね。

小さな手足、口、鼻、目。頭の形(歪つ)と鼻の形(未発達な感じ)が少しきっと18トリソミーの影響があるのかな、という感じだった。

それでもずっと眺めていたいと思ったのはホルモンの影響(母性?)だったのかな。とにかく小さな小さな娘が、本当に愛おしかった。元気に産んであげられたらどれだけよかっただろう。

そして抱っこした瞬間、とても軽いけど重い、不思議な感覚だった。

事前のコンサルテーションでもらった思い出作りの資料の一つに、赤ちゃんの重さのクッションを無料で作ってくれる団体(Huggable Hearts)があって、それは特にいらないかな、って事前に夫と話をしてたんだけど、実際に抱っこしたこの瞬間に、「この重みを忘れたくない」と思ってやっぱりオーダーしたいっと思った。

病院では特に急かされることなく時間を過ごさせてもらって、赤ちゃんをこの後どうするか、という話になった。

火葬するか、そのまま埋葬するか。ニュージーランドでは20週未満、400g以下は特に許可なくどこにでも埋葬していいらしい。

火葬にする場合にも2つオプションがあり、1つは病院で火葬してコミュニティ墓地にそのまま弔う方法。もう一つは業者(Funeral directors)に頼んで、火葬してもらって自分達で遺灰を受け取る方法。

遺灰を受け取りたかったので、業者に頼む方法を選んだ。夜だったので、赤ちゃんは家に連れて帰ってもいいし病院で預かることもできると言われた。連れて帰る場合には冷蔵庫に保管することになるらしいけど、赤ちゃんの遺体が近くにあると辛くなってしまうかなと思ったので病院で保管してもらって、業者に引き取りに来てもらう方法をお願いした。ちなみに胎盤も一緒に荼毘に付される。

今から思えば、自宅に一度連れて帰ってくればよかったかな、とも思う。でも、余計に辛かったかな。自分で赤ちゃんを葬儀屋に連れて行って引き渡しをしなければならなかったわけだし。

後になって思うことはいくらでもあるけど、その時、その時でいつも心に余裕がない中での選択は本当に難しい。

退院の手続きをしてもらう前に、サマーに赤ちゃんを抱っこした姿を写真に撮ってもらった。両手に収まってしまうくらいの小さな小さな私の娘。見返すと今でも辛いけど、撮ってもらって良かった。この時を逃したら2度と撮れないものだったから。

夜21:00頃、書類関係も全て終わり、サマーに感謝の言葉を伝えて、ハグをしてもらってから帰宅した。赤ちゃんと過ごした時間は泣いていたりもしたけど、薬の影響で頭がまだいつもと違う状態だったのか、その日はそのままとても深い眠りについた。

妊娠中は眠りがとても浅かったので、久々の朝までの長い眠りだった。

その後

※ かなり暗く、悲しい表現も含みます。客観的な事柄だけを知りたい方は読み飛ばして、最後の時系列へどうぞ。

翌日朝から、涙が止まらず、何もできずに1日を過ごした。

夫は朝から仕事に向かっていった。

ソファの上で、泣いては赤ちゃんの写真を眺めたり、スキャンの写真や10週、13週で録音した心音を聴いたり、12週以降に病院からもらった血液検査やスキャンのレポートを何度も読んだり。

妊娠を継続していたら、ということも何度も考えた。でも、悲しい結末以外にはなり得ず、これでよかったんだと言い聞かせては、悲しさが溢れてきて、を繰り返し。

ミッドワイフからもフォローアップの連絡があった。前回の流産のときは病院を紹介してもらった後は全く連絡が来なかったけど、今回のミッドワイフは本当に細やかにフォローしてくれて、この人に頼んで本当に良かったと思った。

翌々日、実は仕事を始める予定だった。仕事をしていた方が気が紛れるかと思ったからだ。

朝からやはり涙が止まらず、それでもパソコンの前に向かった。そしてちょうどそのタイミングで、Funeral directors(葬儀屋)から電話がかかってきた。

火葬するには私のサインが必要なこと。そのためには実際に彼らのオフィスに出向かなければならないと。

サインをしにオフィスに行くこと自体はなんということもないことなんだけど、働く気になっていた気持ちが一気にまた赤ちゃんの死へ向いてしまい、働けるような状態ではなくなってしまった。

会社で一番仲の良い同僚に連絡をしたところ、「会社としてはこの1週間は働きたかったら働く、という感じで大丈夫だから、ちゃんと時間をかけて休んで欲しい」と言ってくれたので、働けると思った朝に連絡する、という風に決めてしばらく休みを取らせてもらうことにした。

Funeral directorsのオフィスにUberで向かい、書類の手続き。「17週でお子さんを亡くすなんて辛かったね」と言われて、ここでも泣いてしまった。

帰り道、30分くらいの距離だったので一人で歩いて帰ることにした。公園を通り、咲いていた花を見ては娘と一緒に見たかったなぁと泣いて立ち止まって、を繰り返して帰宅。

帰宅したら会社から荷物が届いていた。オーブンに入れればすぐ食べられる状態の料理のギフト(Angel delivery)だった。食欲がなく、料理を作る元気もなかったので、これが本当に助かった。これがなかったら、食べなくてもいいや、と思って何も食べなかったと思う。

この日の夜、帰宅した夫に、「ごめん、今日仕事に復帰する予定だったのに働けなかった」と伝えた。頭では自分たちの決断を理解しているし、後悔しているわけではない、でも悲しくて悲しくてたまらなくて、涙も止まらなくて、気持ちのコントロールができないんだということも伝えた。

夫は冷静で、子どもを亡くしたから悲しいのは当たり前だし、感情を抑えたらダメだよ、泣いたらいいよ、と言ってくれて、翌日休みを取って朝から一緒にいてくれた。

3日目、やはり朝から涙が止まらず、それでも夫がいてくれたので二人で何をするわけでもないけど、少し気持ちが落ち着いた。そして、この日は自分でいろいろと調べたり問い合わせしたりする意欲が湧いてきた。

  • 赤ちゃんの重さのクッション

  • 赤ちゃんを亡くした親たちのグループ・SANDSへの連絡

  • カウンセラーの手配について病院のミッドワイフへ確認の連絡

赤ちゃんの重さのクッションは、サイトでオーダーしようと思って眺めていたら、ハート型のシンプルな形だったので、ふと「自分でも作れるのでは?」という思いが湧き上がってきた。それと同時に他にはどんな形で赤ちゃんの重さを記録に残す手段があるのかも気になり調べていたら、出てきたのがメモリーベア。

赤ちゃんの重さのメモリーベアは結婚式の記念などとして親に贈ったりもするので一般的だけど、そういうメモリーベアは大きくて重さも1kg未満は受け付けてなかった。ハンドメイドで小さなサイズを作っている人も個人でいたけど、見つけたかわいいベアはUSから10週間待ちだった。

あの重みを忘れたくないから欲しいのに、10週も待てない。10週待つのなら道具を揃えたり練習したりする時間を考えても自分で作った方が早いと思った。夫にも自分で作ろうと思う、という話をしたら、大賛成だと言ってくれて、まずは週末にミシンを買いにいくことに。それまでに作り方やソーイング関係の材料が買えるお店などを調べ始めて、前向きな気持ちになれた。

4日目、仕事に復帰した。一部を除いて特に妊娠を知らせていなかった同僚たちにもマネージャーを通して今回のことを伝えてもらっていたので、サポートしてくれていることへの感謝と今も悲しいけれど乗り越えられるように頑張るということをみんなにメッセージして、在宅で簡単な仕事からスタート。

今回のことを同僚たちに伝えるかどうかは悩んだけれど、伝えてもらって良かったと思っている。知らせを聞いてすぐにメッセージをくれたり、オフィスに戻った時にハグをくれたりと、本当に良い仲間に恵まれたと思う。しばらくは突然ふっと悲しい気持ちが戻ってきてしまうし、そうなって泣いてしまっても多分大丈夫という安心感があったからか、翌週のオフィスへの復帰も少し緊張はしたけど、問題なく果たすことができた。

週末、ミシンを購入し、2日間かけてメモリーベアを作成。1体目はものすごくヘンテコなクマが出来上がってしまって、夫と二人で笑った。こういうことから少しずつ、気持ちが前を向いていけるんだろうな。2体目、思った以上に早く、可愛くできて、満足な出来になったのがこちらの写真。重さは小豆で調整した。

ハンドメイド・メモリーベア

翌週、オフィスへ復帰した。久々の電車旅も、オフィスでの仕事も問題なく終えた。妊娠発覚後、つわりもあったのでほぼ4ヶ月ぶりのオフィス勤務になった。会った同僚たちがハグをくれたり、優しい言葉をかけてくれたりして、本当に良い会社だなと思った。

カウンセリングも受けた。致命的な病気を持つ家族をサポートしている組織によるカウンセリングで、実際に18トリソミーを含む様々な深刻な病気を持つ子どもたちやその家族を見てきているカウンセラーからの温かい言葉は、とても意味のあるものだったし、勇気の出るものだった。

ミッドワイフと最後のやりとりをした。お礼とまた次に妊娠の機会があったらあなたにお願いしたい、と伝えたら、「My fingers and toes are crossed for you」と言ってもらった。「Fingers crossed」は「何かが起こることを強く願ってるよ」という意味なんだけど、彼女は足の指もクロスするよ、ということで「強く強く願ってるよ」というメッセージだ。本当に包容力があって信頼できるミッドワイフに出会えて良かった。

遺灰の受け取りは思っていた以上に心を揺さぶられた。受け取り自体はとってもシンプルにサインをして、終わり。ただ、帰宅して娘の遺灰を見た瞬間、「こんなに小さくなってしまって」と、父の骨上げの時に母が泣きながら言った言葉がよぎった。そこからは父のことも思い出して何だかものすごく辛く悲しくなって声を上げて泣いた。この歳で親の遺骨も子の遺灰も見ることになるなんて、なんて人生なんだろう、って思わずにはいられなかった。

2週間後の週末、実はこの週末が一番気持ち的に落ち込んだ。遺灰の受け取りをしたこともそうだし、後に体調のところでも触れるけど、胎盤の残りが出てきたりで、まだ娘へのロスが濃い中で夫の誕生日のパーティがあり、まだ気持ち的には乗らなかったけれど、彼の新しい歳がいい歳になるようにと思ってやっぱりお祝いはしたかったので参加することにした。

でも、これは参加しない方が良かった。まだ賑やかな場所に行くには早すぎたと思う。

みんな夫の友達ではあるけど、私は顔見知りという程度であったので気も遣ったし、パーティが大好きな人たちなのでダンスしたり歌い始めたりして、周りが賑やかになればなるほど、気持ちが沈んでいくのをコントロールすることができなかった。

その場では泣かないように夫に声をかけ、夫には残ってもらい、私だけ車で帰ることに。3時間くらいだったけど、パーティはその後さらに3時間続いたようなので、帰宅して良かったと思う。

車の中でも帰宅してからも涙が止まらず、こんなに自分自身が制御できなくなるなんて思ってもみなかった。夜もほとんど眠れずに、朝帰宅した夫に日本に帰りたい、とワンワン泣いてしまった。日本に帰っても特に何かしたいわけではないけれど、母にとにかく会いたかった。

でも、この大きな感情崩壊の後はいつでも日本に帰れるという気持ちがあるからか、少しずつ落ち着いてきて4週間以上経った今、時々まだ泣いてしまうことはあるけれど普通の生活に戻れている。

体調の経過

痛み止めと炎症止めを処方してもらっていたので、最初の1週間は毎日飲んでいた。生理のひどくない時くらいの痛みが1週間は続いていた。

生理二日目くらいの出血が1週間続き、少し量が減ってきて、2週目の金曜日の夜に一度止まった。流産の時も確か2週間で止まったので、出血が止まったかと思ったのだけど、翌朝、また少量の出血。そして夕方、胎盤の残りと思われる塊も一緒に出てきた。出てきた瞬間ちょっとギョッとしたのと、胎盤とわかってぶわっと娘を出産したときの記憶が蘇ってきた。

その後、生理の4日目くらいの出血が続き、3週目の週末(娘の出産から2週間と6日目)に完全に止まり、現在は最初の生理待ち。

費用

ニュージーランドは2年以上のワークビザか、永住権を持っていると基本的に妊娠にかかる費用や病院での医療費が無料なので、今回の妊娠初期から誘発分娩まで、費用はほぼかからなかった。

妊娠の報告に行ったGPのコンサルテーション料$50は後に返却された。

Ultrasound scan(エコー)は施設によって無料だったり、有料だったりするので、6週目のエコーは無料、12週のエコーは$40。

血液検査は全て無料。

ミッドワイフとの4週間ごとの30分間の妊婦健診も無料。

オークランドホスピタルでの2回の専門医によるスキャン、コンサルテーション、羊水検査も無料。

ワイカトホスピタルでのミッドワイフとのコンサルテーション、誘発分娩、日帰り入院費も全て無料。

そして、娘の火葬費用も無料だった。これは数百ドルかかると言われていたのに無料だったのでびっくりした。

休暇

ニュージーランドでは、流産・死産でも忌引休暇が最大3日間もらえるけれど、人工中絶の場合はその対象外。自分で決めたことなのだから、ということなのだろうけど、身体的にも精神的にも負荷も高いSecond Trimester以降の胎児異常や母体への負荷による人工死産にも適用されたらいいのになぁと思う。

そのため、今回の人工死産にかかる全ての休暇はSick Leave(病欠)を使用した。ミッドワイフがMedical certificate(診断書)を書いてくれて、会社によっては長期の病欠にそれが必要になるらしいけど、うちの会社は流産のときもそうだけど、特に診断書はいらなかった。病院でも必要であればMedical certificate出すよ、と言ってもらった。

すべての時系列

最終生理日から出生日スキャンまで、生理日を元にした週数を使っていたけど、赤ちゃんの大きさを元に割り出された予定日診断では1週間のずれが発覚したため、それ以降はその週数を使用。

3週0日 妊娠検査薬陽性(最終生理日から4週0日)
4週0日 GP(かかりつけ医)・血液検査(最終生理日から5週0日)
5週3日 ミッドワイフ検診1(最終生理日から6週3日)
6週2日 出生日スキャン(最終生理から7週2日、ここで予定日修正)
10週2日 ミッドワイフ検診2
12週3日 コンバインド検査(NTスキャン・血液検査)
13週2日 コンバインド検査結果返却(18トリソミー・三倍体の疑い)
13週6日 専門医検診・スキャン
14週0日 ミッドワイフ検診3
16週3日 専門医検診・スキャン2、羊水検査
17週1日 羊水検査結果(FISH検査)返却(18トリソミー確定)
17週3日 人工死産のためのコンサルテーション
17週5日 人工死産 
-- 以降もわかりやすいように週数を継続します --
19週0日 火葬依頼
19週1日 羊水検査全項目返却(他の染色体異常はなく、18トリソミーのみの異常が確定)
19週2日 遺灰返却
19週2日 カウンセリング
20週4日 出血止まる
23週6日 生理開始(子の人工死産から6週1日)

最後に

最後まで読んでいただきありがとうございます。

忘れたくないという思いと、同じような状況になった人や身近な人が同じような状況になったという人たちに何か伝えられたらと思い、稚拙ではありますが長々と書かせていただきました。

赤ちゃんの病気を理由にした人工死産は本当にいろんな感情が湧いてきます。

悲しみ、絶望、後悔、罪悪感、周りへの嫉妬、どこにもぶつけようのない怒り。

どんな理由でも人工中絶は許せない、受け入れられないという人もいるかもしれません。

でも、流産しやすい時期であると言われる12週を越えて、赤ちゃんの病気が検査などでわかるようになる週数まで大切に育ててきて、それでも妊娠の継続を諦めなければならないことが悲しくないはずがないということは理解していただけたらと思います。

私はこの妊娠の前に流産を経験しました。8週の心拍確認後、順調に育ってると信じて疑ってすらいなかった子は、11週から不正出血が始まり、12週のスキャンでは数週間前に亡くなっていることがわかりました。

悲しみと、あんなに楽しみに描いていた未来はとっくに終わっていたんだという虚しさ。

それを乗り越えてできた今回の妊娠は、最初からずっと不安が付きまといました。毎日毎日、出血していないかトイレに行くたびに不安になり、早く12週が過ぎてほしいと祈っていました。

それでも、前の子が越えられなかっただろう10週での心音確認、12週での育った姿でのスキャンは泣かずにはいられないくらいの感動をもたらしてくれました。12週のスキャンから血液検査の結果が返ってくるまでのわずか6日間のみ、心の底から妊娠を喜び、不安なく過ごすことができました。

18トリソミーの疑いが知らされてからは、そうでないことを信じながらも毎日のように泣いて過ごしていたので、もし病気であることを承知で妊娠を継続していても、子が亡くなるその日まで毎日泣いて過ごしていたと思います。それくらい、絶望を感じ続けた1ヶ月でもありました。

子どもを失うことは本当に辛い。そしてその痛みは子が育つほどに大きくなっていくものだとも思います。そのため、私たちは選択することが許される早い時期に、妊娠の中断を選ぶことにしました。この早い時期でさえ喪失感はとても大きく、深い悲しみはきっと消えることはないと思います。それでも、私たち家族にとってのできうる最良の選択だったと信じるしかないのです。

前回流産では、また次の妊娠へ、と前向きに考えていましたが、今回のことを受けて専門家と遺伝カウンセリングなども受けながら私たち夫婦にとっての最適な方法を模索したいと考えています。検査や医師との相談の結果次第で、今回の妊娠が最後だったという可能性も大いにあると思っています。

どうしてもある一定の確率で赤ちゃんの命に関わる病気が起こってしまうのはとても辛いことですが、現在妊活中・妊娠中のみなさんのお子さんが元気に生まれてくることを強く願っています。

もし、私と同じように選択をしなければならなくて辛い状況に置かれている方で話をしたいという方がいれば、TwitterからDMくださいね。

おわり。

追記:22週以下に赤ちゃんが死んでしまうことを「流産」というので17週だった今回の処置に人工流産という言葉を使っていましたが、中期中絶は人工死産というらしいので修正しました。

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