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自己紹介

はじめまして、バンコク在住ライターの日向みく(ひなた みく)と申します。ご訪問いただきありがとうございます。

この度、noteを始めることにしました。初記事は「自己紹介」として、幼少期から現在に至るまでのストーリーをつらつらと綴っています。少し長いですが、よかったらご覧ください。

日向みくのプロフィール
1989年生まれ、岡山県倉敷市出身。大学卒業後、住宅リフォーム会社に就職し、営業を担当。2016年に退職し、1年間の世界一周の旅へ。帰国後は地元の私立高校や中学校で旅に関する講演活動やラジオ出演を経験。2019年9月より夫婦でバンコク移住し、現在はフリーライターとして活動中。人や企業への取材・インタビュー記事をメインに執筆している。


生きづらかった子供時代。ずっと「自己表現できる場所」を探していた

生まれは岡山ですが、幼少の頃は父親の転勤で茨城や神奈川に住んでいました。小学1年生のときは2度の転校を経験。当時は人見知りだったことも相まって、クラスになかなか馴染めず、とても苦労したのを覚えています。

8歳のとき両親が離婚。母方の祖父が住む岡山の実家に戻るも、小学6年生のときに祖父が他界。以来、母・私・妹の3人家族で支え合って生きてきました。

女3人の暮らしはとても楽しく、娘2人は母からの愛をたっぷり受けて育ちました。私の一番の理解者である母には、学校のこと、恋愛のこと、何でも相談していました。

母と砂場遊びするのが好きだった幼少期

4つ下の妹とも仲が良く、子どもの頃は2人でよく歌を歌ったり、山を探検しながら秘密基地をつくったりして、日が暮れるまで遊んだものです。

母子家庭でも不自由を感じたことはなく、女手ひとつで大学まで行かせてくれた母には感謝しかありません。尊敬する、強くて優しい偉大な女性です。

正直に言うと、小・中学校の楽しかった記憶はあまりありません。岡山に引っ越したばかりの頃は、方言に慣れず萎縮してしまうなど、なかなか周囲の環境に馴染めずにいました。

何をするにも不器用で、自分の感情を言葉にして伝えるのも苦手で。笑顔ではいるものの、話しかけられると黙り込んでしまい、周囲からは「みくちゃんは大人しいね」と言われていました。でも……

「ほんとの私はそうじゃない」

いつもそう思ってた。家では変顔やおどけたダンスをして腹を抱えて笑っていたし、ミスタービーンの物真似するのも大好きだったし、妹と庭で「海賊ごっこ」「マンモス狩りごっこ」「埋蔵金探し」をするような変な子だったんです(笑)。

鈍感で不器用ながらも芯は強く、「本当の自分を知って欲しい」というもどかしさと葛藤を内に秘めながら、ありのままの自分を表現できる場所を常に追い求めていました。

そんな子ども時代に惚れ込んだバイブル本があります。スウェーデン作家の児童文学、『長くつ下のピッピ』。主人公である9歳の少女ピッピの冒険心や破天荒さ、常識にとらわれない自由な生き方……その全てに惹かれました。

スウェーデンの児童文学作家リンドグレーン著『長くつ下のピッピ』シリーズ

ピッピは実在こそしないものの、子どもの頃の私にとってはまさしくヒーローであり、メンターだったのです。実際にこの本は、私の人生観に多大な影響を与えました。

初期のライター活動で使っていたハンドルネーム「ぴっぴ」は、彼女の名前からとりました。ピッピの生き方は、大人になった今の私にとっても理想です。

口下手で引っ込み思案な私が自己表現するための限られた手段が、「ピアノを弾くこと」、そして「文章を書くこと」。

4歳で始めたピアノの技術力を学校で評価してもらい、小・中学校の学芸会や卒業式のコーラスでは何度も伴奏を担当しました。

自分の感情をメロディーとして表現できるピアノは、私の絶対的な味方でした。そしてその伴奏に耳を傾けてくれるオーディエンスの存在も、私に少しばかりの自信を与えてくれました。

小学校時代 学芸会でピアノ伴奏をしたとき

子どもの頃は小説が好きで、自分でも物語を創作していました。母と衝突したときは、うまく言葉にできなかった本音を手紙にしたためて渡しました。自分の感情を文章にして伝えることで、随分と自分自身が救われたんですよね。

小学校6年で、卒業生による「別れの言葉」の原稿を書く役割を任されたとき、自分でもびっくりするほど「楽しい!」と熱が入り、夜な夜な一生懸命考えたことを覚えています。先生に「とてもいい文章だね」と褒めてもらったときは嬉しかった。

そんな私の転機になったのが高校受験。中学2年でとある高校のオープンスクールを訪れ、その開放的で自由な校風を肌で感じ、「この高校に行きたい!」と強烈な憧れを抱いたのです。

「今の成績では厳しい」というレベルから必死で勉強し、晴れて合格。人生で初めての "自分で選んだ道" でした。その頃を境に、「明るくなった」「よく喋るようになった」と驚かれるようになります。

人生で重要な決断を自分でしたことで、自分軸が少し太くなったのだと思います。

大学時代に海外への好奇心が爆発

高校時代は世界史が好きで、大学では西洋史を専攻しました。ヨーロッパに強い憧れを抱き、所属していた国際交流団体のプログラムを利用して、大学1年の秋にドイツのケルン市に1週間滞在しました。

溜息が出るほど美しい街並み、カーニバル、ナイトクラブ……カルチャーショックだらけの日々。13カ国から集った23名の学生との交流を通じ、毎日が驚きと感動の連続で胸を躍らせ、新たな世界が一気に開けた感覚がありました。

ケルン市開催の国際交流プログラムにて。各国の代表料理を作ってパーティーを楽しんだ

「世界にはこんな素敵な人たちがいるんだ。いつか彼らと肩を並べて、流暢な英語で語り合いたい」

そんな熱い思いがこみ上げ、本気で英語の勉強を始めたのもこの頃です。

そこから海外への好奇心に火がつき、大学在学中は、国際交流団体の活動に邁進。フィリピンの農村でファームステイ、日韓学生会議の企画・運営など、合計7つの国際交流プログラムに参加して、海外の学生たちと交流を深めました。

ひとり旅にも目覚め、スーツケースを転がして日本各地のゲストハウスに宿泊したり、南欧を周遊したり。新しい人や土地との出会いが何よりも楽しかった。

大学卒業前に南欧をひとり旅。クロアチア・ザグレブのゲストハウスでの出会い(私は中央)

大学3年生のときは、各地に出向いて取材する新聞記者に憧れ、地元の新聞社で1週間インターンシップをしました。就活では面接であっけなく落ちてしまったけど、当時の経験は後の人生に大きく影響しました。

22歳のタイ旅行で世界一周を決意、26歳で実現

大学4年の夏休み、人生初の海外一人旅でタイのバンコクを訪れました。

当時、"バックパッカーの聖地"として有名だったカオサンの安宿で、“世界一周旅行者” を名乗る金髪の青年と出会いました。「このあとインドに行くんだ」と、日焼けした顔で笑う彼の話はとても刺激的で、私もワクワク。そしてふと思ったんです。

「あれ、これもしかして……私もできるんじゃね?」

タイから帰国後、彼に教えてもらった「世界一周ブログ」を読み漁り、大勢の世界一周旅行者がいることに驚きました。そして「一度きりの人生、私も世界一周する!」と決心したのです。

2011年9月のタイ旅行。カオサンでの出会いが私の人生を変えた

でも、出発のベストタイミングっていつだろう? まずは内定を頂いた会社で4、5年ほどしっかり働いて社会人経験を積もう。そのあいだに旅資金を貯めよう。そう決めて、エクセルで「世界一周計画表」を作成しました。

大学卒業後は、住宅リフォーム会社に営業として4年間勤務。アットホームな職場で上司や同期に恵まれ、大切に育てていただきました。しかし「組織で働くのが苦手かも」という葛藤を常に抱えていました。

一方、商品の宣伝で地元のテレビやラジオに何度か出演したときは、「声がいい。話し方が上手」と褒めてもらうことがあり、意外な自分の特性にも気付きました。

2016年2月、26歳のとき、ついに世界一周に出発。メキシコを皮切りに、中南米、ヨーロッパ、アフリカ、中東、インド、東南アジアと、世界29ヵ国83都市を訪れました。彼氏(現在の夫)との遠距離恋愛もスタート。

知人から話をいただき、「女ひとり世界一周放浪記」と題して、ニュースサイトに月に一度旅エッセイを寄稿して、旅の様子を発信していました。

「エポックタイムズ・ジャパン」にて旅エッセイを寄稿


寄稿した旅エッセイは紙面にも掲載された

各地の絶景や、奇想天外な出会いに胸を弾ませて旅をしていると、「自分らしく生きている実感」がありました。その喜びを噛み締めつつ、好奇心に身を任せて、メキシコで折り紙販売をしたり、ボリビアで働く先輩の職場を訪問したりもしました。

メキシコのサン・クリストバル・デ・ラス・カサスにて、先住民に混じって折り紙販売

アフリカを旅したとき、それまで抱いていたネガティブなイメージが根底から覆され、いかに自分が固定観念に囚われていたかを痛感したんです。自分の目で見て、耳で聞いて、肌で感じたことを大切にしよう。そう思いました。

ウガンダ西部の街・ポートフォータルで、現地の小学校を訪問

新しい世界を知れば知るほど、自分の無知さを思い知る日々。イスラエル・パレスチナ問題、ルワンダ虐殺、カンボジアの地雷問題… 気になることがあれば現地在住者にアポをとって話を聞きに行きました。

「現地のことをみんなにも伝えなきゃ!」という妙な使命感に駆られ、SNSで発信し続けました。今思うと、当時から「取材」が好きだったのかもしれません。

カンボジアで地雷撤去の第一線で活躍する高山良二さんにお会いし、活動に3日間同行した

1年後の2017年2月に帰国。旅を終えて感じたのは、「日本に生まれただけで運が良い」ということ。生き方を自由に選べる人は、世界にどれだけいるのだろう。私が見た世界はとても理不尽で、だからこそ「せっかく日本にいるんだから、やりたいことはやらなきゃもったいない」と思いを強くしたのです。

とはいえ、私が世界一周を実現できたのは、周囲の理解や支えがあってこそ。自分がとても幸運なことも自覚していて、この貴重な経験をなんらかの形で社会に還元したいと、ずっと思っていました。

母校の中学校で300人を前に講演

世界一周を終えた4か月後、知人から「報告会を開催してほしい」とお声掛けいただき、地元岡山のイベントホールでの報告会を始め、県内の私立高校や中学校など、5回の講演をする機会に恵まれました。

岡山の国際イベントホールで「世界一周報告会」を開催

とくに、母校の中学校で300名の生徒と保護者を前に講演させていただいたときは、夢のようでした。

驚いたのは、来場者の方から「生き方に感銘を受けた」「自分もなにか挑戦しようと思った」「子どもにも聞かせたい」など、嬉しい感想が数多く寄せられたこと。個人の経験を発信することで、誰かを勇気づけたり、背中を押せることがあるんだと、形容しがたい大きな喜びを感じました。

母校の中学校の「立志式」にて、300名を前に講演をした

講演をきっかけにラジオ出演、さらに新聞社から取材依頼もいただきました。私の旅をカッコよくまとめてくださった新聞記事は、一生の宝物。反響が大きく自信ももらい、「言葉の力って凄い」としみじみ感じましたね。

地元の新聞記事に掲載していただいた記事

それにしても、子どもの頃あんなに引っ込み思案だった私が講演をさせていただくようになるなんて。今では「喋りすぎ」と言われるほどで、ほんと、人って変わるものです(笑)。

その人にとって「宝物」になる文章を書きたい

2018年に結婚。2019年9月、夫婦でタイ移住して、現在に至ります。私にとってバンコクは、縁を感じる特別な場所。その多様性も、混沌も、懐の深さもすべてが大好き。

タイ生活は今年で3年目に突入しました。「書くこと」を本気で仕事にしたい。そう志し、2020年3月に個人ブログを開設。2021年6月より、「地球の歩き方 バンコク特派員」としてライター活動を始めました。

現在はバンコク在住ライターとして、キャリアやビジネスなど幅広いテーマで、タイ在住者への取材・インタビュー記事をメインに執筆しています。またオンラインでの著名人インタビューや、タイのガイドブック制作にも携わっています。

バンコクの仏教寺院「ワット・ベンチャマボピット」(大理石寺院)

取材するたびに思うのは、私はとにかく「人が好き」だということ。インタビュイーの魅力や唯一無二のストーリーを世の中に届けられたとき、大きな喜びを感じます。

私が世界一周の旅を記事にしてもらって感動したように、私もその人にとって「宝物」と思ってもらえるような文章を書いていきたい。

また昔の私のように、うまく伝えたいことを表現できず悩んでいる方がいたら、自分がスピーカーになって彼らの声を届けたい! という想いもあります。

「やりたいことをやる」って、シンプルなようですごく難しい。でもやりたいことをしている自分が好きだから、できたら死ぬまで文章を書き続けたい。とにかくタイにいるあいだは、バンコク在住ライターとして、現地に住む人やタイの魅力の発信に情熱を注いでいきたいです。

noteでは、インタビュー記事や旅エッセイなどをメインに更新する予定です。みなさま、これからどうぞよろしくお願いします(^^)




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