ちゃんとしない練習
『反応しない練習』『気にしない練習』という本があります。著者はそれぞれ別の方ですが、よく書店で並べて置いてあるのを見かけます。私は両方とも読んだことがありますが、ずいぶん前なので内容は忘れてしまいました。でも、タイトル通りに「反応しない」「気にしない」ことで心を平穏に楽にできる、という内容だったと思います。具体的な練習方法も載っていたような気がします。
ところで、私は病的な鬱に陥る時期があります。高校生くらいのときからその予兆はあり、20代半ばでいよいよ生活に支障をきたすようになりました。年単位で鬱だったこともあり、そのときにはさすがに通院しましたが、あるときふと、自分の症状は「脳の病気」である鬱病とは異なるものだという「ひらめき」があり、「体質」として処理することに決めました。今は寝込むこともなく、なんとかやっています。
ただ、やはり鬱の時期は短いですがあります。そこから抜けるコツ(と、いうか、実際には二次災害が起きないようにする工夫くらいしかできませんが)もだいぶ蓄積されてきました。私は忘れっぽいので、たとえ苦労して身につけたことでも、「最初からできていたこと」と思っている節があります。だから全部は書けないと思うのですが、思いつくままに並べてみようかと思います。
1.寝ていないなら、寝ていないせいである、と思え
情緒不安定も、身体がだるいのも、行動がとろいのも、つまらない失敗が多いのも、頭がうまく回らないのも、睡眠不足ならば当然です。これは鬱ではありません。必要以上に心配するとこじれるので、おとなしく寝ましょう。寝れない事情があるのならば、寝ていないのだから当然、と1000回唱えましょう。
2.鬱は幻想である
鬱期のネガティブパワーには凄まじいものがあります。目にした事象、沸き起こった感情、頭をよぎった考え、そういった全てを恐るべき速度で「自分が駄目な人間である証拠」として採用し、途方もない強度で自責します。これは幻想です。お釈迦さまのおっしゃっている通り、全ては幻想ですから、当然この自責も幻想です。色不異空空不異色色即是空空即是色です。1000回唱えましょう。
3.あとは待つしかない
鬱が幻想だとわかったところで、鬱は消えません。「食卓に梅干しご飯がある」という視覚的体験をしているとき、梅干しご飯は網膜に写っている像に過ぎないから実体はないのだと言われたところで、見えるものは見えるのです。鬱は鬱です。全ての悪あがきは傷を広げるだけです。「自分を責めてしまう 対策」みたいな感じで検索するのはやめましょう。効きそうな療法や役に立ちそうな本を探し回るのも駄目です。天と繋がったり悟りを得たりするための修行も不毛です。占いを調べて、これも運命だと諦めてすっきりしようとするのも無駄です。今は、あらゆる情報が私の助けになるどころか害をなします。役に立つ情報ならいいんじゃないか、とか言っている場合ではなく、あらゆる情報です。例外として、「なんか知らないけどふと目に入ったツイートを辿って行ったら出会ったブログ」「なんか知らないけどKindleがおすすめしてきて目に止まった本」「たまたま会った人から聞いたなんとなく気になる情報」「急に舞い込んだなんとなく面白そうなオファー」「印象に残った夢」は大切にしましょう。それはもしかしたら、私が待ちわびていたものかもしれません。
まずは、待っている間が暇になってしまうのを避けましょう。とは言っても、私は悩む暇を作りたいがために、必死になって具合が悪くなって寝込んだりするわけです。もちろん好き好んでやっているわけではないのですが、鬱期はどうしても、悩む暇を作ろうという無意識の作為(というか)が働きます。よくよく観察してみると、寝込むほどの不調はひとつもなく、身体はきちんと生命力に満ちているのです(かつては心身ともに本当に死にそうなときもありましたが、現在はそこまで深刻な事態に陥ることはないです)。寝込むと悪化するのでやめましょう。具合が悪いから寝込のは当然だと思うかもしれませんが、自らわざわざ寝込むような体調を作っているのだと自覚しましょう。鬱期に暇だとネガティブスパイラルが加速するという真理を忘れないように。
しかし、暇を作らないようにと思うと、ついつい忙しく働いてしまいます。それはいけません。それでは全く待っていることにはなりません。暇ではないけれど、来てほしいものが来たときに気づかないような状態では困ります。そして、忙しく働くと義務感や責任感に駆られがちなので、ついついやりたくないことをうっかりやってしまったりします。やりたくないことをうっかりやらないというのがとても大事です。これは鬱期から立ち直るときももちろんですが、平常から心がけることが必須です。やりたくないことをうっかりやるのは、鬱にエサをやっているようなものです。厳禁です。そういえばこの文章のタイトルは「ちゃんとしない練習」だったのですが、それはこのことを書こうと思っていたからでした。書いているうちに構成が変わってしまいましたが、自分でも忘れていたので仕方ありません。
暇を作らないようにしつつ待つ、というのは本当に難しいです。これはまだまだスキルを磨く余地がたくさんあります。ちゃんとしない練習については、また書きたくなったら書くことにします。この文章を書くのも「ちゃんとしない練習」だったみたいですね。