父の波乱万丈人生
「私の育ち①」の中で皆さまにも、
父が癖の強い人だったことが少し伝わったかと思います。
人の人生はこのページで語りつくせません。
ましてや95まで生きました。
なのでざっとお話したいと思います。
私の人間形成にも大きく関わってきます。
父は5人兄妹の長男として生まれ
大学在学中に第二次世界大戦が起こり、
優秀だった父は周囲の反対を押し切って
軍隊に志願します。
パイロットに憧れがあったとか・・
ところが陸軍の試験に落ち、
海軍兵になり過酷な訓練を受けることになります。
その中でプライドの高い父にとって
60歳を過ぎても忘れられない事があります。
それは体罰です。しごきです。
上官に靴で殴られたことを生涯忘れていませんでした。
父は特攻隊に志願しました。
志願者は簡単な票に〇か✕かを書かされ、
洗脳された志願者たちが9割位〇をつけ、
✕をつけた少数派はみなに棒で殴られたりしたそうです。
気の弱いはずの父は、ここで上官を見返そうと、
何重にも〇をつけ、一目置かれたそうです。
なぜ気の弱い自分が〇をつけたのか分からない、
と戦争について多くは語りませんでしたが
それだけは聞いていました。
海軍の特攻です。
特殊潜航艇という片道切符の
4人乗りの潜航艇で
寒い中訓練していたそうです。
いよいよ出撃か、という時に終戦し
命拾いしたのでした。
そこからの人生が紆余曲折。
編入して入った大学は「バカばっかりだ」
と退学。
そのまま短気な父は転々と職を変え
(管制塔職員や教員、タクシー運転手まで
あらゆることをしたそうです)、
なんと16回目に就職した年は40歳、そこで母と再婚します。
プライドの高い父は、
頭から離れない学歴社会と
上手く折り合えませんでした。
昔は土曜日も半日勤務(半ドン。。死語)がありましたが、
憂さを酒ではらしていた父は、
土曜日は起きられず、
よく母が会社に「具合が悪くて。。」
と電話していたのを
小さかった私もよく覚えています。
平日も仕事後は酒。帰宅すると母と大喧嘩。
手を出す父ではなかったのが幸いですが、
借金までして呑んだくれていました。
私は今でも誰かが大きな声をあげたり
叱責、言い合いしたりしているとドキドキしてその場から逃げます。
いわゆるPTSD?
でも母と結婚してから父の転職癖はおさまりました。
そんな父は学歴がないと苦労すると思いこんでいたので
私たち姉妹のことも「ダメだダメだ」と
褒めることは皆無、
頭ごなしに勉強を強いました。
子供は親の喧嘩に傷つきます。
将来何になりたい、とか考える余裕などなく
忘れようとするかのように友達と遊び呆けていました。
志の低い子だったと思います。
憎みました。私は父を憎んでいました。
でも30代頃から、少なくとも学校に行かせてくれた父を、
許そう、許そう、と努力し続けたら憎しみは徐々に減りました。
相当な時間が必要でした。
自己肯定感が低いのは父のせいだと、
若い頃は人のせいにしていましたが
今は私も50代。
それも自分で変えられるものです。
良かったことは、
私が幼稚園生の頃アフリカへ、
小学生の頃シンガポールへ転勤、
私にとってはどちらもいい思い出です。
母にとっても一番いい時だったと思います。
父は65で胃がんになりました。
病気で気弱になり、もうダメだ、と
手術成功後に鬱になりました。
(元来悲観的なので、成功したにも関わらず立ち直れません)
その時の鬱は大変で、入院時、電気ショックもかけてもらい、
幸いそれが功を奏したようで退院。
丁度出産したばかりの私の息子に、
最初は「気持ち悪い」と寄り付かなかったのですが、
段々表情が明るくなり
息子を抱っこできるようになりました。
寛解は息子のおかげです。
そこから生真面目でもある父は一滴もお酒を飲まず、
後悔の根本であった大学に通信で編入します。
その頃は英会話サークルも仕切ったり
一番良かった頃でしょう。
母との喧嘩はなくなりました。
70になった時、同業者から手伝いを頼まれ、
意気揚々とモンゴルへ出張に行きました。
通訳、翻訳の仕事をしていたので
海外へは何十か国も行っています。
モンゴルでは夜遅くに不良に切り付けられたり、財布をすられたり
年を考えず出歩いていたようです。
80になった時、イギリスのリーズ大学院に通信で入学しました。
無事卒業後、何年かしてから、
戦後〇〇周年(忘れました)の大学院でのパーティーに、
OB及び戦争体験者としてスピーチを頼まれました。
随分練習して一人で向かわせたのが失敗でした。
慣れたはずの海外でも年齢のせいでオーバーフローしたのか、
向こうで急にパニック障害を起こし入院、
パーティーにはあえなく不参加でした。
姉と母でイギリスまで迎えに行ったのでした。
そこから二度目の鬱が始まりました。
その度入院、看護で母は苦労の連続でした。
少しずつ調子が良くなり、
また大好きな英語と歌を始めるようになりました。
英語は戦前から優秀で、戦後の駐屯地でも通訳をしていたので
英検の審査員級。
一生極めることはない、と言いつつ
一つのことをずっとやり続けたことは今となっては尊敬します。
私は一生追いつけないでしょう。
91の時、病気に弱い父は軽いパニック障害が元で
「生涯青春」のスローガンは消失、
意気消沈して食も細くなり、
病院や老人ホーム、老健を行き来し4年間闘病。
折り合いの悪かった父には、
最後に病院に面会に行った時に、
大きな画用紙に「尊敬しています」と書いて見せました。
言えなかったことが心残りだったから。
コロナ禍だったので、
フェイスシールドにマスクの私に気付いたか
分かりませんが、主人には握手を求めていたので分かっていたと思います。
もう点滴だけの細い腕。
一週間後に亡くなりました。
病気になってからは
「死にたい死にたい」と言って、
水分だけの点滴も、自分から「外してくれ」と言ったそうです。
その15分後くらいに亡くなりました。
ボケてもなく、意識のある中、
どんな気持ちで言ったのか、
考えると涙が出ます。
決していい思い出ばかりじゃないですが、
思い出すとソファーでいつも洋書を読んでいた穏やかだった晩年が真っ先に浮かぶのです。
ここまで長い文章を読んで頂き、
ありがとうございました。
色々ありましたが亡くなって初めて、
もう少し優しくしてあげれば良かったと
思ったりしています。
大事な人とは後悔のないようにお付き合いをしていきたいです。