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私の育ち④ 社会人から再々入学、就職まで~

社会人へ

短大を中退後、加速度的に孤独を感じ、
人生の意味を問い、
大好きな友達にも会わず
派遣社員として淡々と、
アリンコのように社会の一員に紛れました。

友達第一だった私は、
家庭環境からの逃げであったのだ、と気づきました。
自分の将来の志望もなく、自信も持てず
ただ環境を忘れたくて群れていたのだ、と。

でも昭和ですから、
孤独感、絶望感にさいなまれても
不登校になって動かないわけにはいきません。

派遣登録すると、父に勧められたPCの基本操作を学ぶだけで、
すぐに職場は見つかりました。
時代は情報化社会へ。

何社目かの会社で主人Pと知り合って、
古い言葉で言うと「見そめられた」のが最大の幸運です。

ただ、PC作業で目が悪くなる一方で3か月でやめました。
しかし私はその職場で、いかに自分に教養がないかを実感するのです。

仕事をしながら悶々と考えた上、
私は初めて自分から勉強がしたい、と思いました。

夫P(交際中)は、学歴など気にしないし、
早く結婚したい人でしたが、それを押し切り、
私は再度短大に行かせてほしい、と親に頼みました。

気持ちに気付くのが遅くて、
3か月ほど受験勉強をして、
前は英文科でしたが、
英語で語れる中身のない自分に意味がないと思い、
国文科を選びました。

試験の出来が悪く、
帰りの電車でそれまでの人生を振り返り、
またダメなのか、と人目も気にせず泣いたことを覚えています。
でも合格をもらえました。

再々入学

今度は2つ年下の子たちとの生活。
強くなっていた私は、もう迷いません。
周囲の子に声をかけ、グループもこだわらず、
勉強するために強く立っていました。

経済状況からか、制裁なのか、
お小遣いがなしになり、私はバイトにも精を出しました。

2年間まるまるレンタルビデオ店にお世話になり、
ビデオが無料で借りられたので
名作と呼ばれるものはほぼ観ました。

それと家庭教師。
なんといっても時給がいい。
昭和の当時でも1時間2500円でした。

あっという間にやってくる就職活動。
やりたいことはやはり見つかりません。
(40代になって見つかるのです。どこで出会うかは神の采配ですね)

バブルが崩壊した直後で少し求人は減っていましたが、
ものぐさな私は近距離の企業ならどこでもいい、と銀行を選びました。

近距離で通えると思っていた私は、
なんと東京支店に飛ばされました。
世の中そううまくは行きません。

就職

横浜から東京へ・・ 
なんでぇ?と思いながら痴漢のやたら多い〇海道線で
ヘトヘトになって通いました。
基礎体力がありません。

そう、鞄をカッターで切られたり、痴漢が多いために、
私がとった作戦は安全ピン チクリ。
小さな安全ピンで、手をチクリと刺します。
お勧めします。

結婚を早く望むPの意向で、入社1年目にして結婚。

呑んだくれの父は丁度胃がんの手術を成功し、
鬱に移行した時期でしたが、
仕事の日程の関係上、
また鬱症状も改善されてきたことで結婚式の日取りを決めました。

ところが、
前日になって「行けない行けない」と自信を喪失した父は、
式に不参加でした。
花嫁の父欠席。仲人さんは慌てていました。
母はすごく心細かったと思いますが、姉と一緒に頑張ってくれました。
母には頭が上がりません

ただ、
式前日に父は家で急に棒立ちになって
「ここに幸あり」を歌ってくれました。
途中でやめちゃったけど。。
式で親族に歌ってもらう予定でした。
嬉しかったです。
鬱が寛解するまで待てなかった自分を少しだけ反省。

何十年後かに、
「式に行けずに悪かったな」と謝ってくれました。
でも大事なところを不参加するのは父らしいです。
「ああ、そうね」と返事をしました。

その後、独身のお局(死語?)様の隣でバツ悪く仕事を続けましたが、
遠方であること、仕事に魅力がないこと、毎日同じことの繰り返し・・
3年後に退職しました。

仕事とはそういうものですが、
結婚していたから辞められたのです。

ちなみに貿易関係の部署だったので、
お金に触ったこともありません(笑)
しかし「銀行勤め」の肩書の信用は絶大。
私はそれで随分得をしました。


おしまい。

ちょっと尻切れトンボなので、
to be continued☆ということで。


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