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お父さん、元気にしてる?

三連休最後も、どこも行きたいところがなく夫婦で家で静かに過ごしています。

今日は亡父の誕生日。
いつもお祝いに行ってたっけ。
しんみりと思い出しています。

特攻隊にいた父。
そのため大学を中退して、学歴コンプレックスから抜け出せなかった父。
そこから波瀾万丈の人生。
16回転職して、母と結婚した。
いや、母のおかげで転職癖が消えた。

父は胃がんになる60まで、性格は本来生真面目だったけど、家庭では威圧的で母を馬鹿にして呑んだくれて子どもを褒めたこともなく、特に人様の前で母を馬鹿にするところが許せなかった。

私はずっと憎んでいたから、結婚相手は父と正反対の人にしようと理想は決まってたので結婚も早かった。

病気になる前は、呑んだくれて毎晩夫婦喧嘩。
私はドキドキしながら部屋にこもった。
今でも大声や喧嘩口調は苦手。

何かで読んだのだが、暴力ありで夫婦喧嘩するよりも、暴力なしの言葉の応酬の夫婦喧嘩の方が子供は傷つく、らしい。
何故なんでしょう? どちらも傷つくと思うんだけど…

でも、病気になってからは大好きだったお酒も1ミリも飲まず、70歳ほどで放送大学に編入したり、同じく通信制のイギリスの大学院に入学、好きな英語の勉強を満喫して、すっかり落ち着いた。
もとより、第一回目の英検1級を取得、国連英検も取得、仕事は通訳と翻訳だった。

有り難かったのは、私が結婚後、無理に家に呼ぶことはなかったこと。母もその辺は遠慮がちだった。姉が呼ぶので、しぶしぶ遊びに行っていた。親不孝だったな。

そして主人の悪口も聞いたことがなかった。大正15年生まれの古い人だったから、私が学生の時は勉強しろとうるさかったけど、結婚後は内助の功と、主人の出世を何より望んでいた。

胃がんや鬱を経験してすっかりおとなしくなった晩年の父を、私は段々許せるようになった。少なくとも食べさせてもらったこと。許そう許そう、と思っていたら何十年もかけて許せるようになった。

でも仲良しだった時期がなかったので、老後父の見舞いに行った時などは会話に困り、根暗な父がうなだれていても何を話していいか分からなかった。

私の傾聴活動のきっかけの一つである。
もっと話を聴いてあげれば良かった、という懺悔の気持ち。
それを今おばあちゃま達にしている。

喧嘩ばかりしていたのに、病室ではよくうわ言でも母の名前を呼んでいた。結局父には母しかいなかった。長年夫婦が連れ添うとこうなるのか。


母は90過ぎても父の病気の面倒をみるハメになり、「もうええわ。どうでもええわ」と初めて投げやりな言葉を吐いた。私は耳を疑った。

今まで献身的に面倒をみてたけど、体力的にもきつかったのだろう。母は父の面倒で忙し過ぎて、自分が病気になる暇もなかった。

今も天国で(地獄か?)英語の勉強をしているだろうか。一つのことを追求していた所は褒めてあげよう。英語の勉強には終わりがない、と言ってたっけ。

今日くらいは色々と思い出してあげよう。
じゃないと、誰も思い出さないもんね。



ここまで、つまらない話しを読んでくださり、ありがとうございました🙇‍♂️



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