滲む酒
友達に会いに新潟に行った。初めての土地で、初めてのお酒を交わしに。
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その日は夜勤明けだった。急いで家に帰ってシャワーを浴びる。
綺麗な自分を見てほしい。それなのに、男の体というのは髭も生えれば汗も臭う。
洗いたての自分に満足するけれど、到着する頃には汚くなっちゃってるんだろうなって、すこし陰る。
最初こそ運転したものの、ほとんど嫁さんの運転でホテルに着いた。はじめは一人電車で行くと言っていたのに、乗り換えがいると知り急に不安になって頼んだんだ。二つ返事でOKしてくれた。そうだ、僕は天使と結婚したんだったな。
そんなこんなで、無事に友達と合流した。Twitterのアイコンに本当にそっくりだった。本人はデブだと言っていたけど、どちらかと言えばガッシリとした感じだった。
嫁さんとはここで別れ、僕は彼の車に乗り込んだ。
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目的地は蕎麦屋さん。子供の頃からの馴染みのお店だとか。
10分ほどのドライブだったけれど、その中でも自然と言葉がかわされた。なにをこう思うだとか、こうありたいだとか。
「盛り上がらなくたって、一緒に呑めればそれでいいよね」と言っていたのだけど、やっぱり少しは不安があった。
でも会ってみれば、僕はなにも緊張せずに話せていた。それはきっと、なにを言っても彼は咀嚼してくれることを知っていたからだとおもう。
いい夜になる予感を確かに感じながら、車を降りる。
店の前で気づいた。そういえば、蕎麦屋で呑んだことってない。初めて二人で呑める喜びにもうひとつ初めてが加わって、気分が彩られていく。
暖簾の向こうに客はおらず、とても静かだった。時代を感じながらも清潔な雰囲気。いいお店の空気だ。
メニューを見る。お品書きを開くとき、まず酒のラインナップを確認してしまうのが呑兵衛の性(さが)。
本命はいたとしても、やっぱり「とりあえず生」。
このお店はアサヒの熟撰で、僕の地元じゃあまり見ないビールだ。スッキリとしていながらコクもあっておいしかった。
なんと、このお店はビールを頼むと2皿ほど小鉢がでるとのこと。ひとつは小ぶりの魚をカリカリに揚げたもので、もうひとつは忘れた。
あぁ、小鉢とは別だけど思い出したことがある。
最初の乾杯だ。なんとなく、ふわっとしてしまったなぁと思う。
本当はもっと噛み締めるように、それでいて盛大に、グラスを鳴らしたかった。
でも、そんな後悔はすぐに喉の奥に流れていった。だってとっても嬉しいから。
僕はこの人と呑むのが念願だった。その相手が目の前にいる。夜はまだまだこれからで、言葉をおもいつくままに言葉にできていて。あぁ、会えたんだなぁって、思った。
やがてビールを飲み終わると、日本酒を頼んだ。
なんとなく選んだそのお酒は、彼が昔働いていた酒造のものだという。
色々な思い入れがあるのだろう。嬉しさをベースにいくつかの感情を混ぜた、微妙な表情で僕に伝えてくれた。
あれこれと語られず、選んでからそうだと分かる喜びったらない。彼が意識していたかは分からないけれど、心地いいなと感じた。
そしてそのお酒の味も、またよかった。派手さがなくて、でもちゃんとおいしい。嫌みのない旨味がすーっと抜ける味だった。
と、書いたけど実はそこまで覚えていない。その後、彼の家でたくさんの美味しいお酒を呑むことになったから。
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僕の知らない土地で、彼の馴染みの土地。
二人で歩いて、家へと向かっていた。
その間は、日本酒の話をよくしていたとおもう。なんで日本酒は生活に馴染めないのか、廃れつつあるのか。そんなことを話しているのに、僕は日本酒を好きになったばかりなのが、ちょっと面白かった。
途中、行き止まりかと思う道にさしかかった。
「こっちだよ」と彼が言うと、坂とも言わぬ坂がそこにあって。
どう表現したらよいか分からないけど、きっと伝わる言葉がかわされた。
子供が自転車でむきになってのぼる坂 だ。
世の中そんな坂ばっかりなんだけどさ。ほんとうにその通りで笑ってしまった。
新潟という土地はとにかく田園が広がり、遠くまでよくみえる。穏やかな人が育ちそうだ。
僕らはずっとまっすぐ歩いていて、気づけば月がそこにあった。黄色くて大きな月。綺麗だった。
でも、それもつかの間。
雲は流れ、月が隠れ。やがて、ポツリポツリと雨粒がやってくる。
その雨はゆっくりと速度をあげてゆき、とうとうどしゃ降りへとかわった。
走った。久しぶりに笑いながら走った。
彼は申し訳なさそうに焦っていたけど、僕はもうおかしくって、でも酔った状態で走るのが苦しくって。幸せにこんがらがっていた。
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家につく頃には二人ともびしょ濡れだった。
彼がドライヤーで髪を乾かしている間、少し奥さんとしゃべる。ちっちゃくてかわいい奥さんだった。そういえば蕎麦屋で互いに伴侶に恵まれていると話をしていたなぁ。まったくその通りだ。
そして僕も髪を乾かし、静かに宴は始まった。
彼は冷蔵庫から1本日本酒をもってきたかと思うと、また一本、また一本とどんどん机に置いていく。あっという間に6本の日本酒がやってきて、さらに僕のお土産が1本。計7本がズラリと並んだ。
日本酒が好きなのはわかっていたけれど、本当に好きなんだなぁとしみじみ。こんなの、もうお店だよ。最高じゃんか。
それぞれ1杯ずつ飲んで、感想を言っていく。とても素敵な時間。
この時も、彼は無闇に説明をしたりしない。僕の言葉をただ受け入れてくれて、時には面白いとも言ってくれて。とても心地がよかった。こんな人が増えたら、日本酒好きは増えていくんじゃないかとすら思った。
酒が強くないと言った彼も、僕につられて酒を飲む。こちらも嬉しくなって酒を飲む。どんどん楽しくなっていく。
7本のどれもが美味しくて、口から言葉が溢れる。なんだかもう、本当に友達だなぁとおもって、遠慮が消えていってしまっていた。
きっと彼を傷つけていたとおもう。自覚してなかったわけじゃない。
それでも楽しくて。ふたりは沢山笑っていて。酒は香り、華が咲いた。
*
あのときの僕らは赤い顔をしていただろう。嬉しさや楽しさ、痛みや苦味が生まれては流されていって、肝臓だけが聞こえない悲鳴をあげていた。
でも僕は、いや、僕たちは幸せだった。思い出っていろいろあるけれど、噛み締めるほど味のあるものはその時にわかるものだ。
そして、どれだけ話足りなくても、タイムリミットはとっくにきれていた。
「じゃぁ、最後に」と、彼がお燗をつけてくれた。
僕は残った酒をチビチビと飲みながら、その真剣な様子を見ていた。また、好きなんだぁって思った。
やがて出てきた燗のお酒は、天穩という名前。
それはなんのひっかかりもなく、ふわりと口のなかで広がり、そして消えた。
衝撃だった。僕の知る燗とはまったく別のものだった。おいしいという言葉では表現しきれない味がそこにあった。
彼も一口飲んで、しみじみと唸る。
消えていく味を追いかけていく僕ら。
するり、するりと。じっくりと味わいたくても、気づけばそこにいない。そしてまた注ぎ、また消える。
すぐに、徳利は空になった。
・・・あぁ、終わってしまう。今が、思い出にかわってしまう。
この儚さはなんだ。いつだって幸せは雲のように流れていく。
気持ちを察してか、彼も同じだったのか。もうひとつだけ燗をつけてくれた。
今回の手土産 山廃純米手取川。石川のお酒で、僕の相棒。
お燗って不思議だ。レンジとお湯とで違うのはわかるけれど、こんなに変わるものだろうか。
彼がつくってくれたお燗は、やっぱり未知の酒だった。
その味は天穩と似ていて、でも、違う。
柔らかな肌触りは同じだけど、手取川は後口に少しの酸を残していった。
これがひと時の夢じゃないと言ってくれるような。胸の奥へ消えていくこの夜を、一本の糸で繋ぎとめてくれるような。そんな酸味だった。
*
あれから、もう何日もたつ。
なにを語り合ったかはおぼろげだけど、あのふたつのぬる燗がいまも心に滲んでいる。
日本酒がつくってくれた夜。
忘れられない思い出をありがとう、りょーさけさん。
また、呑もうね。