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お別れの日
4年間住んだアパートの退居がおわった。ガランとなった部屋は、内見で一目惚れした時とおなじように輝いている。同じ部屋なのに、それはどこか遠くの光のようで、あぁここはもう僕の家じゃなくなるんだなと、感じる。
11時半に掃除がすんで、嫁さんとふたりで管理会社の人がくるのをまった。退去立ち会いの予定はあと30分後。そのあとは玄関をあけることができない。それが、なんだか不思議だった。
*
「結婚してはじめての家が、ここでよかったよね。」
穏やかな声でそう言われて、頷く。ほんとうにそうだ。半分山のなかのような田舎にあるこのアパートは、たまにキツネが見れるほど自然に囲まれている。車ですぐ町におりれるのに、とっても静かで綺麗な場所だった。近所のオープンハウスにはすぐ足をはこぶほど、この土地に惚れ込んでいた。
僕たち夫婦はずっと仲良しだけれど、心の波が荒くなったことは何度もある。それが辛くてたまらないのは大抵夜だった。そんなとき、いつも外へでて空気をもとめた。
すこし濡れた風が肌に触れると、すぐに心地よさがやってくる。こういう時、すぐにその感覚に身をゆだねられれば人は生きやすいのだろう。僕もその才能はあるけれど、苛々から目をそらしきれるほど器用じゃない。それでも、歩き続けていれば夜が染み込んできて、いつのまにか落ち着いているのだ。
*
「この家のおかげで、散歩が好きになったよ」
そう言ってくれる君が好きだよ とは言わなかったけれど、とても嬉しかった。
一人でも、二人でも。朝も、昼も、夜も。いつでも、僕たちはこの家から散歩にでた。
丘の向こうに広がる山と空。いつも小さな岩のうえに座っている錆色の猫。小さな柿の木畑。川の流れる音。公園で遊ぶ子供と、見守る親。君の手の柔らかさ。ぐるっとまわって戻ってくれば、あたたかく佇む、我が家。
この環境が、何度僕たちを救ってくれただろう。ささくれてしまう心を、いつも柔らかな風が穏やかにしてくれた。
フローリングにどかっと体を預けると、大きな窓の向こうに青空がみえた。久しぶりの爽快な空と雲はやっぱり美しくて、すこし、胸がくるしい。
*
インターホンがなって、管理会社のお兄さんが到着した。
各部屋を見てまわる。特に目立った損傷箇所もなく、敷金は7割ほど戻ってくるだろうとのこと。
説明をうけ、鍵を返す。
「お世話になりました。」
そう言って、僕らだけが部屋をでた。
階段をおりればすぐ駐車場だ。でも、車には乗りこまない。嫁さんの手を握る。最後の散歩は、なんてこともなく、自然とはじまった。
いつもより遅く歩いたり、いつもより長く歩いたりもしなかった。慣れ親しんだ風景をただ見つめていた。途中の開けた場所までくると、さっきは切り取られていた青空が、山々と共に悠々とひろがっていた。
知っている。何度も見てきたから知ってるんだ。なのに、涙が滲んでしまう。声が震える。
15分ほどの散歩。このアパートでよかった、そんな話ばかりをした。駐車場へ戻ってくると、ちょうどさっきのお兄さんが部屋から出てきて、鍵を締めるのがみえた。
*
新しいアパートは、前より壁が分厚くて、外の音があまり聞こえない。とても「家の中にいる」という感じがして、不思議だ。前は半分外と繋がっているような感覚だった。
ずいぶん町中だから、こうじゃないと辛いのかもしれない。寂しい気もするけれど、悪くないなとおもう。
この家は、目の前に薬局があって、裏には公園がある。歩いていける飲み屋がたくさんあって、スーパーも近い。なにより、ペットが飼える。保護猫を二匹、むかえたい。そのための引っ越しだったんだ。
新しい生活が待っている。僕たちはもう、あの玄関を開けられない。でも、ワクワクしているよ。ごめんね。
*
蛍の季節に、きっと君を思い出す。
バイバイ。ありがとう。大好き。
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