先週の金曜日は珍しく部屋が片付いていたので、
酔い潰れた友人をそのまま自室に連れ込み、たべっこどうぶつを食べながら一緒に寝落ちした。
ほわほわの意識の中、友人が「明日はここに行こう」と勝手に決めて譲らなかったので、翌日急遽SOMPO美術館の「北欧の神秘」展に行くことに。

感想:絵ってヤバい。
北欧も神秘も「北欧の神秘展」もすごかったけど、なんというかわたしはそれを考える・感じる以前の段階にいたので、今回はわたしが実感したマジのマジの初歩の「絵」のヤバさを書いておこうと思う。

前提

前提としてそもそも、私は「見た目」というものにあまり興味がない側の人間である。
人の容姿という意味ではなく、もっと広く視覚情報全般というか、文字とか音とかそういういろんな情報のスタイルの中で、ざっくりとした「見た目」の情報に関するこだわりが普通より薄めな気がするというか……

好きな色や好きな柄や好きなキャラクターで自分の周りを彩りたいという気持ちもあんまりないし、映画を見るより本を読む方が好きだし、(ルッキズムが蔓延る現代社会の中でいうときれいごとのように聞こえるけど純粋な事実として)あまり「美しい(とされている)容姿の人間」みたいなのにも興味がない。
かわいいなと思う服や好きだなと思うキャラクターとかはあるにはあるけど、それらは全て「こんな感じの服を着ていたあの人(の持っている考えや聞いている音楽)が好きだった」とか、「こういう容姿をしているキャラクターによくある言動が好きめ」とか、その見た目に紐づいている別のものからの影響であって、本当の意味で「見た目」そのものが好きというわけではない感じがする。

自分の好きな色や好きな見た目がある人に憧れを持ったり、誰かを模倣してわたしにも好きな見た目があるぶってみたりすることもあるけど、なんとなくわたしの底からピュアに湧いてくる「好きな見た目」や「嫌いな見た目」は無いな、と寂しく感じてしまったりもする。

と、わたしはこのくらい「見た目」全般に興味のない人間であるから、無論美術館には全然行かない人生を送っていた。
歴史とか文学とかそういうなんかカルチャーてきなこと(ふわふわ)には興味があるので博物館の展示とかにはまあまあ行ってたけど、「絵が淡々と並んでいる」系のやつは、なんとなくわたしには楽しめない気がしてしまい、遠ざけていたのだ。

※最近は「美術館は難しいところじゃない!知識がなくても、なんとなく好きな絵がみつかったりなんとなく綺麗だなと思ったりするのも素敵なことだよ!」というような意見も結構あるけど、いやいやわたしにはそれが一番むずかしいのでございますよとずっと思っておりました。

でも、そんなわたしにとっても、いや、そんなわたしだからこそ、今回改めて「絵はヤバい」と感じることができた。

絵のヤバさ①みんな絵を描きすぎ

絵がありすぎる。
展示室に入って一番最初に思ったことはそれだった。
わたしは本当に絵に興味がないので、わたしの部屋には絵が一枚もない。
いわば、普段「絵・ゼロ」の状態で生活をしているということだ。
そんなわたしがいきなり「絵・70」の空間に参戦、かなりヤバい。

思えばわたしだって小さいころは人並みに絵を描いていたような気がする。
誰に言われるでもなくおひめさまのイラストを真似したり、オリジナルのようせいさんを創作してみたりしていた。
でも今は「絵を描きたいな」と思うことが全くない。
絵を描きたいけど時間がないとか、絵が上手く描けないから描きたくないとかじゃなく、「絵を描く」という選択肢がそもそもいまのわたしに全くない。

だからなんらかの理由で絵を描きたいと思って絵を描いたという人がいっぱいて、その絵をいままで保存するために尽力してきた人もいっぱいいて、そしてこの場に絵を見にきている人がこんなにいること自体が、あんまり実感できないくらいすごいことだった。

「みんな絵を描きすぎ」は、常日頃から思っていたことである。
わたしの周りには日常的に絵を描く友人がたくさんいて、絵を全く描かないわたしはいつもそれをなんかすごいな〜と思いながら見ていた。
絵を描く人って人生のかたわらでちょこちょこ絵を描いていて、絵に思いを馳せているってことだから、わたしの人生と違いすぎている。
しかも絵を描く人って(それが目に見えるかたちであらわれていようといなかろうと)ちょっとずつ絵が上手くなっていく人生を送ってきたということだと思うと……全然共感できなくて本当にすごいな。

まあでもそう考えたら表現ってヤバいし、営みって全部ヤバいな。
お仕事も趣味も、みんなそれぞれいろんなことをやっていて、みんなそれぞれ全然違いすぎる人生を送っていておもしろすぎ。

わたしは歌が好きで人よりちょっと歌を歌っている時間多めの人生を送っているから、多分、ちょっとずつ歌がうまくなっていく人生である。そうだといいね。

絵のヤバさ②絵は嘘でも良い

多分これはすごく当たり前のことなんだろうけど、「絵って嘘でも良い」ということが、わたしにとってはヤバすぎた。
絵は現実じゃないから、そこにあるものをそのまま描かなくて良いんだ。
それは能力的に描きうつしきれないとかじゃなく、「本当はこうなっているし、わたしはこのまま描くこともできるが、そうしませんよ」という積極的な選択の話だ。

一筆一筆、一色一色にその選択が込められているのヤバすぎないか。
絵って決断。
「絵を描くってもしかしたらずっと小さな決断をし続けるということなのかも、だとしたら割と心より頭寄りの営みでは」と思った。
この影はないことにしちゃってもよいか、この色はもう少し明るくしちゃってもよいのか。そういう「嘘をつくかどうか」の選択を逐一おこなわなきゃいけないということだから、かなり頭を使いそうだ〜
(もしかしたら「嘘をつきすぎているのでこの絵はあまりよくないですね」という価値観もどっかにあったりするのかもしれないけど、でもだからってその絵が許されないわけではないと思うので、絵は根本的に嘘をついて良いんだと思う。)

妖精が描かれてるとか、物語を絵にしてるとかじゃなく、ただ自然を描く場合とかでもその判断はずっとつきまとっていそうだし、でも完全に嘘を描くにしたってその妄想の中には現実で見たことのあるもののエッセンスが絶対に入ってしまうわけだし……。

待ってこれ音楽とか文学でも別にそう???何か表現をすることってその決断を積み重ねることかもしれない。
でも絵は「やろうと思えばマジでただただ現実に近づけることができる」のにそれをやらない選択をする(こともできる)、というところがかなり重要な気がする。

というか本当は世界に線とかないのに線とか点とかでそれを描こうとしてるのヤバい営みすぎる?????
あれ??????ということは嘘をつくつかないとかじゃなくて、絵は全部嘘ってこと??????まあ多分それはそうなんだけど……
絵、むずすぎ。

絵のヤバさ③額縁もヤバい

絵もヤバいが、額縁もヤバかった。
わたしは美術館に行かなすぎていたため、そもそも「絵って割と額縁に入っている」ということ自体をめちゃくちゃ久しぶりに思い出したレベルであった。
でも、額縁ってヤバいです。
わたしは今まで額縁のことを知らないながらになんとなく、「額縁は絵を飾り、絵を親しみやすくしてくれるもの」的な存在だと思っていた。おしゃれっぽく言うと絵とわたしをつないでくれる的な。
でも実際、額縁はむしろわたしと絵の世界をめちゃくちゃ切り離し、絵に没入したいわたしに対して「お前はこの中には入れませんこれは現実ではありません残念でした」とめちゃくちゃ拒否してくる感じがした。
額縁がなければ絵の世界とわたしは繋がっているという可能性がちょっとでも残されていたのに、額縁は残酷にもわたしと絵を、冷たく重く遠ざけてきた。ちょっと悲しかった。
でも逆に額縁があるおかげで、(わたしとは関係ないがわたしの見えないところで)この絵はもっと広がっているのかもしれない、きっとそうなんだろうなと思えるようなそんな感じもしていたと思う。
絵はわりと基本的にわたしと関係がない感じがするので、それが心地よいという面もあったような。

結論 わたしも美術館をたのしめる

急に別のデートスポットの話にうつるが、わたしは友人と水族館に行くたびいつも興味の矛先の違いに驚かされる。
わたしはやっぱり見た目のことがどうでもいいので、水族館に言ってもあまり魚自体の話ができない。魚がでかくてすごいとか、この魚が綺麗で好きみたいな感情があまり出てこないのだ。だから代わりにこの建物の展示順が面白いとか、魚の漢字が書いてあって楽しいみたいな話ばかりしてしまう。
いわば私は「水族」より「館」の部分を楽しんでいたということだ。

だからわたしは美術館でもそれになると思っていた。「美術」自体を楽しむことはできないから、かわりにその外側の部分を楽しむしかないかなと。

でもその予想に反して、わたしは今回かなり「美術」の部分を楽しめたなと思っている。
確かにやっぱり1日を通して考えてみても「この絵なんか素敵」「この色なんか好き」みたいな感覚はあんまり湧いてこなかった。
かといって知識があるわけでもないから「この絵の背景はきっとなんたら戦争が」とか「同時代の文学はこういうのだから」みたいな背景を楽しむということも全然できなかった。
でも、「美術」というか「絵」そのもののヤバさは十分に楽しむことができたなと思う。人が絵を描き、絵を飾り、絵を見てきたことのヤバさはかなり楽しめたとお思う。

うーん、水族が泳ぎ、水族を飾り、水族を見てきたことのヤバさもいつか楽しめるようになるかなあ。



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