【20日目】ジョーカー

 こんばんは。チーソーの赤い部分です。水曜日のダウンタウン、面白いですよね。
 さて、ジョーカーを観ました。

 人間の心理や思考の暗黒面に着目して、それを求め続けるのも良いですが、こういう話題作や名作も観なきゃいかんなあと反省しましたね。なぜなら名作だから。でも、名作には必ず人間のダーティな面が描かれている。なんたる矛盾。

 本作を観終わったあと、多くの人はこの映画をどういうふうに感想を書いたんだろうということが頭をよぎりましたね。能のステップで。というのも本作は要素が絶妙に絡み合って、人間の生活に通底するブルースを的確に描いているからです。とりあえず要素を書き出してみる。

 ①アーサーは母子家庭である。
 ②アーサーは精神病である。
 ③アーサーは貧困である。
 ④アーサーは芸人である。
 ⑤アーサーは非正規雇用である。
 ⑥アーサーは無職である。
 ⑦アーサーは拳銃を持っている。
 ⑧アーサーはノンポリである。
 ⑨アーサーは突発的な行動をしてしまう人間である。

 いったんこのくらいにしておきましょう。まず、アーサーの人柄について考えていく。本来的に優しい人柄は①の母子家庭での教育の賜物であるし、教育方針によって④芸人を目指している。そこで笑いの道に邁進できれば良いんだろうけど、②病気によって笑いの感性がズレてるし、見せたい芸もうまく表現できない。
 自己実現というのは、あらゆる人間が人生をかけて行うものだが、おそらく後天的にその道が閉ざされている。つまり、あらかじめ人生における目的やゴールがない。そういった人物だと言える。③貧困から抜け出すべく奮起するが、目標の喪失という重大な欠損がある。どん底から抜け出せないことが確定している。
 ここに⑧の要素も絡んでくる。近年の日本のネット上の論調は「貧困は自己責任である」というものだけど、それはあまりに不勉強だ。程度にもよるが本来、こうした問題は会社や政治または行政にその責がある。しかし、⑥無職(私と同じですね!)によって会社の責任は問えない。⑧によって政治または行政に責任を問えない。行政からの薬の援助は断ち切られ、②は悪化していく。そのため、ようやくスポットライトが当たる場面でも⑨突発的な行動が抑えられない。そのため、犯行に及んでしまう。こうした人生は誰のせいかと呪うが、具体的な攻撃対象が見えない。だから、漫然と凶行に及ぶし、後ろ盾のない人生だから⑨のように振る舞っても本人は至って無風状態だ。
 このような人生が、悪のカリスマを生んだ。That's Life。映画のテーマのひとつですね。こんなの面白くならないわけがないじゃないか。

 映画を観終えて、昨今のジョーカー事件について思いを巡らす。そうした時に思い当たるのは<魂の科学>についてだ。これは澁澤龍彦が死を語る際に用いた言葉。たしか、『幸福は永遠に女だけのものだ』に入ってたはず。

 つくづく思うのですが、宗教ではなくて、人間の死に対する意識を根底的に変革することができるような、なにか予測しがたい新しい“魂の科学”は発見されないものでしょうか。

 こういう文脈ですね。で、最近、私はオルダス・ハクスリーの「知覚の扉」を読みました。これは著者によるメスカリンという薬物の体験エッセイで、そこから幻視や法悦のカラクリを解いていくというもの。その文庫版訳者あとがきで、オウム真理教の地下鉄サリン事件を例として挙げた、このような文章がありました。

 社会状況の分析(社会学)と精神分析(心理学)だけで論じていては、象の鼻だけを象といっているに等いことが、本書を読めばわかるだろう。

 この文章が意図するのは「これらの基盤も確かに関与は否定できないが、その凶行の動機を十全に語るには不十分であり、本書で分析されているように<偏在意識>からの分析も必要」ということです。薬物による意識変容は「インスタント禅」とも呼ばれ、日常の見方を変えてしまうことから70年代米国のニューエイジ思想、ビートニクなどで重要視されてきました。これはいわば、西洋文明の誤謬を東洋的思想で超克しうるという新たな誤謬なんですが、どうも<魂の科学>とこの誤謬は血縁関係にあるように思えて仕方ない。両者に相通ずるのは意識の変容でしょう。ジョーカーで言えば、治療薬の打ち切りによって行動が過激化していくんですが、それまではある種、薬によって意識が変容し、犯罪とは程遠い生活を送れていたことが描かれています。IMARU。根治はできなくとも、少なくとも犯罪は起こり得なかったはずなんですよね。

 さて、そろそろ結論に入りたいのだが、当然そんなものはないです。ムリムリ、荷が重すぎる。無職には。しかも、無敵の人は生涯的に幸福であるという催眠をかけられていても、今まさにサメに食べられているという実感は拭いがたいものですしね。泥沼で窒息する時に、そんな慰めは不要なんですよ。じゃあどうする? じゃあ、朧げながら頭にもんやりと浮かんだことを書きましょう。それは

 ・泥沼にいると思わせない徹底的な洗脳あるいは救済

 というものです。これについてもう少し考えてみましょう。まず、泥沼にいると思わせない方法はいくつかあります。まずは泥沼をなくすこと。これは現実社会ではベーシックシンカム、または生活保護に相当します。
 次に、泥沼にハマったことを考えると、「どうして私だけが?」という気分になるはず。なので、全員泥沼というパターンもありえますよね。これはいわば坂口安吾の「堕落論」的な論旨になると思います。全員、貧困。みたいなことですね。あるいは言葉狩りというパターンもあります。つまり、自分だけが泥沼にハマっているという意識を無くしたいのであれば、それを見えなくすればいい。勝ち組、負け組、格差社会などの言葉を徹底的に検閲し、「弱者としての意識」という存在ごと抹消する方法もある。これは立川談志の「死刑制度反対論者から死刑にしろ」的なアクロバティックな論法です。
 あとはなるべく楽に死ぬというもの方法のひとつでしょう。これは安楽死が相当する概念ですね。
 ここまで書いてきて、救済はおそらく泥沼をなくす方法、洗脳は「私だけ」という意識を消す方法ではないかと思います。そして、<魂の科学>は意識の変容が要点なのだから、後者の方法が極めてクサいところを突いているのではないのでしょうか。言葉狩りが横行するディストピアではなく、意識の変容による洗脳あるいは救済に無敵の人たちを生み出さないカギがあるのでは、ともんやり思います。全然文章がまとまってなくてすみません。
 さて、歴史というものはエグいです。米国の70年代「インスタント禅」ムーブメントは終わってしまいました。代償として我々は社会から脱落するための薬物を禁じられ、タバコと酒という安っぽい嗜好品だけが残されました。我々は大きくズレることもなく、真綿で首を絞められる状況は依然として続いています。<魂の科学>の到来は絶望的状況だと言えるでしょう。こんな窮地に追い込まれると人間は必ず笑ってしまうものです。その笑顔はジョーカーのそれに限りなく似ているのではないでしょうか。さあ、最後は本作のこのセリフでお別れしましょう。

 「母は言うんだ。あなたの素敵な笑顔がみんなを楽しませる」

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