【7日目】チャッピー
こんばんは。限りなくロケットに近いものです。人工衛星と間違われたこともしばしば。
さて、今日はチャッピーを観ました。
監督は「第9地区」の人で、やはりCGがイカしてましたね。
あらすじが表示しきれてないので、ぎゅっとまとめたあらすじを書くと、犯罪を取り締まるAIを積んだロボがギャングに育てられるという話。人間でいう寿命であるバッテリーは残り5日しか持たない。そこでドラマが展開するって感じですね。
残り残量で四苦八苦しつつ、展開する映画って結構スリリングなものが多いけど、これはそんなにハラハラドキドキって感じではなかった。なぜなら、電池が持ちすぎゆえ。スマホも残り3%くらいから脅威の粘りを見せることがあるから、そんなもんなのかもなあ。でも、そこにリアリティはいらないような。ところで、ダウンロードも98%くらいからめちゃくちゃ遅くなるよね。ファイルのエンコードとかしてるからかしらん。
この映画では、親役となるギャングの男女とは別に人工知能を開発した人=創造主が出てくる。いわば生みの親と育ての親のような感じ。かくいう私も生みの親が違うので、そこは共感して観れました。ちなみに生みの親は、佐藤蛾次郎、育ての親は三角木馬です。は?
それはさておき、この生みの親と育ての親が違うというのは、特にキリスト教圏では理解しやすいのではないだろうか。すなわち、神の子であり、人の子であるところの<私>。
西洋人は顔をしかめるだろうが、日本人にとってわかりやすいのは川上弘美著「大きな鳥にさらわれないよう」における「母」ではないだろうか。
遠く遙かな未来、滅亡の危機に瀕した人類は、「母」のもと小さなグループに分かれて暮らしていた。異なるグループの人間が交雑したときに、新しい遺伝子を持つ人間──いわば進化する可能性のある人間の誕生を願って。彼らは、進化を期待し、それによって種の存続を目指したのだった。しかし、それは、本当に人類が選びとった世界だったのだろうか? かすかな光を希求する人間の行く末を暗示した川上弘美の「新しい神話」
このディストピア小説内において「母」は小さなグループにいる子を集団で育てる親として機能している。この「母」をさらに統括するような存在で「大きな母」という人物が出てくるシーンがある。これはいわば、キリスト教圏における創造主的なポジションなのだが、奇跡を起こすわけでもなく、ただただ母性が具現化したような存在だ。このただありがたい存在に私は、神の不在(お天道様が<見てる>、すなはち<見てるだけ>)と無常感(<見てるだけ>のありがたい存在は現世での利益をもたらさない、つまり、現世は虚しいもの)が1セットとなった国民性を見る。
私たちの多くは死んだら無、ないし、死んだら浄土に行けると考えている。私はモンダバップン星にいけると思っているが。黒いウサギの耳をでデカくした吸血性飛行生物の異常繁殖が近年、ケランパリセス国を悩ませているらしい。
さて、死んだら無、あるいは浄土について。前者は、認識論に基づいた死ぬ前は、何にもなかったから死んだ後にも何もないだろうという思想で、後者は仏教的価値観によるものだ。この両者に共通しているものは、この地球上は通過する場所という考え方である。無に帰す前のワンダーランドか、徳を積むためのテーマパークか。ここに日本人のここではないどこかに対する、血統的な浮草性、浮遊性を感じる。
なぜ私を産んだのかという問いや、なぜ人間だけが高度な思考体系と認識論を持つのかという疑問は思春期によく現れる。この映画内で、生まれたばかりのAIが創造主であるプログラマーに問うシーンがある。「日本であればおそらくこうした質問にはならないのではなかろうか?」と思うし、この映画の肝となる実に西洋的なこのセリフでお別れしたい。
「なぜ創造主なのにボクを死ぬように作ったの?」