【16日目】世界残酷物語
こんにちは。お口の恋人と下町のナポレオンの嫡出子です。多分うんこ。
間が空いてしまいましたね。ずっとアカギを観ていたためです。おもろいですよね。さて、世界残酷物語を観ました。
ストーリー
世界に点在するさまざまな風習や因習。時にそれらは見る人に奇妙さや、目を覆うような残酷さ、エロティシズムを感じさせることもある。マンハント、高級ゲテモノレストラン、牛の首を切る祭りなど、文明国や未開地を問わず、どこかゆがんだ風俗を取り上げる。
いわゆるモキュメンタリー作品。この映画の原題は「Mondo Cane」ですが、これからいわゆる「モンド映画」の系譜が始まっていくわけです。文学の領域では、以前から贋作は行われており、これが信頼できない語り手という手法に発展していったりもします。未読ですが、ジョージ・サルマナザール『フォルモサ台湾と日本の地理歴史』なんかもその代表格ですよね。
ただ、CGなしの映像作品となれば、カメラはレンズ越しのものを写し続けるしかない。それは単純に事実をとらえた映像となるのが、文学とは違う。
例えば本作では日本の文化・風習を紹介した箇所が2つほどあります。
まず、1つは畜産、それも牛肉についてです。日本では白い伝統的な衣装をまとった日本人が仔牛に肩たたきのような要領でチョップをしています。これは牛肉を柔らかくするため。そして、その作業が終わると麒麟、サッポロなどの瓶ビールを飲ませることでさらに柔らかくしていくという描写。
2つ目は飲み会終わりの風景。男は風呂で多くの女にマッサージなどをさせつつ、企業戦士としての僅かな休息を行うというもの。これはおそらく性風俗=ソープの変形と考えてよろしいかと。
こうしたあきらかな偏見に基づく嘘の描写があります。そういったものを観ながら「そんなバカな」と思うんですけど、じゃあ、これが全然知らない国だったらどうでしょう。真偽がまったくわからない。
作中にこうした場面が出てきます。
海は生前の罪を清めるものだと考えられているとある部族。遺体は海へと還されるのだが、その死体の味を覚えたサメが寄ってくる。その部族は、そのサメを捕まえて、フカヒレを売ることで生計を立てている。サメ漁の際に村人が食い殺されることもある。村人たちは復讐のため、毒を持つウニをサメの口に詰め込む。これは1週間ほどサメを苦しめた後に殺すためである。
いやいや、そんな流暢な! バカな!と思うのですが、次のシーン。
両腕や膝のない村民が砂浜に刺して干したフカヒレを収穫している。
ここで、常識がぐらっと揺れてくる。これはもしかしたら本当なのでは。こうした世界各国の奇習を連続して観ていると自分の中の常識や判断がどんどん鈍くなっていく。それはボディブローのようにだんだんとダメージを増していき、判断が下せないまま、次の奇習の映像が始まる。こうなると私は何も判断ができず、ただ映像を受け入れるだけのダッチワイフも同然だ。ここに本作が名作と呼ばれる理由をを確信する。
これって何かに似ていないか?
判断保留の映像の連続。そう、CMですね。現代人の私たちもある側面において、この映画用な体験を子供の頃から現在に至るまでクラっている。私たちはある側面においてダッチワイフも同然なんだということを突きつけられる。こんなの、名作に決まってるじゃないか。
さて、最後に2つばかりお気に入りのセリフをご紹介しよう。
私は常日頃、あらゆる経験は若いうちにしておいた方が良いと考えている。それは歳を取って、新しい経験をしても思考に影響する時間が寿命と同じように短いため、その経験は大きな意味を持ち得ないからだ。
作中、老いた白人夫妻がハワイに行って満喫しているシーンで、その総括として次のようなナレーションが入る。
「この純粋な世代は若い頃、必死に働いて体にガタがくるようになってから、プログラムが盛りだくさんの休息が取れるようになりました」
なんたる皮肉。しかし、基本的にシニカルとは現実の実相なんですよね。
こうした現実及び非現実を収めた本作では親切にもこんな冒頭のナレーションで始まる。そのセリフでお別れしましょう。世界とカメラはいつでも残酷だ。
「この映画のシーンはすべて真実である。目を背けたくなるようなシーンがあったとしてもこの地球上で現実に起こったことである」