【22日目】グリーンマイル
こんばんは。クルトンです。シーザーサラダやポータジュに浮かべておいてください。
さて、グリーンマイルを観ました。
ストーリー
ある日、黒人のジョン・コーフィが双子の少女殺害の罪で入所して来る。しかし彼は純真無垢な心と、病を治癒する不思議な力の持ち主だった。コーフィに惹き付けられた看守主任・ポールは、彼の罪について探り始めるが、そこには驚くべき真実が隠されていた。
結構サイトごとにあらすじが違いますね。でも、ファンタジー、ヒューマンドラマ、ミステリー、ユーモア、現代から見ればBlack Lives Matterの問題などの要素がゴチャゴチャになった作品はこのブレこそが魅力だし、複合的な主題をわずか3時間でまとめてしまったという事実が名作であることを証明しているのかもしれません。
ユーモアということで言えばセリフにこんなものがあります。新しく入ってきた死刑囚に対して
「残忍で不注意で馬鹿、三拍子揃ってます」
とか、あるいは尿道に感染症を患った看守主任=ポールをベッドに誘ってくる奥さんに向かって、
「まだ水道管の具合が悪い。君にうつすと大変だ」
なんてジョークも。おもろい。
本作を観終えた感想は、文句なしの名作なんだけど、100点ではなく99点という感じ。この「めっちゃおもしろいんだけど、腑に落ちない感じ」を考えていきましょう。
私が一番腑に落ちなかった点、それはコーフィの背景が描かれていないことや、ご都合主義的なビルとウェットモアの最期でも、コーフィの死刑前夜の食事シーンがないことでも、所長のムーアズがコーフィの死刑延期に奔走しなかったことでもないです。そもそもないものを批判するのは、印象批判的であっておかど違いですな。私は本作において<「罪」と「罰」が適当であったか>というこの1点のみ、疑問に思いますね。
そして、それがすんなりと納得できないのは、究極的に宗教性の違いではないか、と思いました。ここで、先ほどのユーモラスな会話ではないですが、有名なブラックジョークをひとつ、書いておきましょう。
「もし、イエスが黒人だったら、世界は変わっていた」
というものです。そもそも完全に白人ではないというのが一般的な見解なので、当たらずも遠からずな良いジョークですね。
それにしてもコーフィとキリストの共通点は多い。これは確実に意図したものでしょう。奇跡の能力、冤罪による死刑(キリストは聖書ではなく口述)、パリサイ人による処刑、30年代アメリカにおいての黒人の境遇とユダヤ人迫害の歴史など枚挙に暇がありません。例えば迫害を描くためには白人至上主義であり、サディスティックなウェットモアが看守に必要だったのでしょうね。うまいなあ……。こうしたことから考えてみると、コーフィはいわば現代に蘇った黒いキリストと言えはしないでしょうか。キリストは人類の罪を背負って死にますが、コーフィは人類の愚かさという罪を背負って死んでいきます。そういえば、コーフィが死んだあとにキリスト教のお守りをポールが付け直してあげるシーンは印象的ですよね。
さて、話を罪と罰は等価であったかという点に戻しましょう。コーフィは罪を背負って罰を受けます。これはキリストの罪と罰のスモールスケールであり、救済と処刑という構造において類似です。問題はポールですね。キリストを消極的な態度で処刑したのはピラトですが、今作においてコーフィを消極的に処刑したポールと言えるでしょう。ピラトと言えば、手を洗って「自分は処刑したけど、これは民衆の不満を抑えるためにやむを得なかったんですよ〜」というエピソードが有名です。ポールはコーフィに「死んだあと、奇跡を起こせる人間を殺した時になんて言えば良いんだ」という旨の発言をします(コーフィは人心が見えすぎて辛い私を「親切心で処刑した」と言えばいいと答えます)。こういう「渋々殺したんだぜ」的なエピソードもそっくりですね。
キリストを処刑したピラトのその後には定説がありません。罪を悔い、キリスト教の熱心な信者になったとか、流刑後に自殺したとか、悪霊が群がって大変だったから山に囲まれたとこに埋めたとかまあ、色々な説がありますね。ポールは長生きの刑に処せられます。いいじゃん、って思う人も中にはいると思いますが、このコーフィの一件後、転職するほど人の死に立ち会うのが嫌になったポールに、妻や友人の死を見送る死刑立会人の役割を担わせるのは割と酷なことだと思いますね。「死を持って償え」なんて言葉がありますが、その逆。「生を持って償え」なわけです。これは完全に余談ですが、不祥事を起こして辞職する人は生を持って償ってほしいですね。それはさておき、その等価性を検証しましょう。
まずピラトの①改宗。これは「悪いことしたから、心入れ替えて、これまで以上に頑張るわ!」という償いですね。これが罰にあたるのかはなんとも。次に②自殺。これは「なんてことをしてしまったんだ! 死んで詫びよう」という償いで、自己を自身で罰する行為でしょう。③悪霊。これは神からの罰だと言えるでしょう。そこに少しだけ民衆の「あんなやつ、末代まで祟られればいい」という怨恨が入っている。
ポールの長生きの刑はどうか。まず罰したのはコーフィと考えてもいいでしょう。長生きパワーを授けたのだから。聖性においての罰という点でちょっと③が入っている。ただポールが抱えた罪の意識に対して、優しめの罰を与えるという点ではコーフィの慈悲のようにも見える。①は転職という観点から、生き様がある事件をきっかけに変わったという点で類似はあるものの、少年院での仕事により一層励み、最終的には所長になりました、みたいなエピソードもないので、除外しましょう。②は真逆ですね。しかし、真逆というのは点/線対称なんて言葉からも分かるとおり、類似を表すわけです。白人と黒人の救世主が出てくる物語の逆転性が、罪の領域にも逆転をもたらし、ピラトとは真逆の長生きの刑に処されている。構造的に考えると妥当であると認められます。世界のあらゆる可能性の排除が自殺であれば、世界のあらゆる摩耗を観察するのが長生きの刑です。前者は一個体の究極的な消滅ですが、後者はそうではない。本来であれば一個体の究極な発露、つまり永生の刑が妥当だと言えるでしょう。本映画では、ポールがいつまで生きたかは明言されていませんが、「いつかはおそらく死ぬ」という発言があります。おそらくこの言葉が<罪>と<罰>の等価交換性を弱めているのと言えるのではないでしょうか。つまり「自殺って消滅という罰だけど、永遠に生きるのではなく、結構長生きするって処刑に対して釣り合ってなくね?」ってことです。あんまりそして、多くの観客がこの曖昧さを本作の歯切れの悪さ(勧善懲悪じゃないからモヤッとする、みたいな幼稚な意見はさておき)として指摘しているんじゃないかなあと感じました。
ここからそうしたレビューを上げていって、この等価性の欠如という指摘の妥当性を検証していきたいのですが、1000字目安で書いているこの無職映画記録にしては長すぎるので、このへんにしておきましょう。論文を書きたいわけではなく、あくまで感想ですし。ああ、3倍の文字数になってしまった。
でも最後に気に入ったセリフを2つ紹介させてくださいな。1つはビターバックが処刑される前のシーンから。
「自分の行った悪事を心から悔いれば、一番幸せだった時に戻って暮らせるのかな? そこが天国かな?」
もう1つはコーフィの処刑寸前のシーンから。
「ここは天国……天国……天国……」