松島智里「彷徨」展に行ってきました。
映画の投稿止まってて、すみません。ずっとカイジを観てまして。圧倒的な怠惰!!!!!
さて、先日、幻想文学の女王である山尾悠子のツイッターでこうした投稿を見ました。
「コラージュ好きなら行かねば!」と思い、先日、京橋はスパンアートギャラリーまで脚を伸ばしてきました。
これです。松島智里のツイッターはこちら。
ギャラリーに行く前にこのツイート見てたら、動画撮ったのになあ。それはさておき、作品の話。
今回展示されていたコラージュ作品は大別して2種類。背景に水彩絵具(?)や前面にスワロフスキー(?)などを用い、相対的には大きめのモチーフを使った作全体的に小さめな作品群と、比較的大きなキャンバスに岡上淑子から連綿と連なるような堂々たるコラージュ作品群がありました。好きだったのは後者ですが、日常生活で机の上などに飾るのは前者かもしれませんね。価格帯や手のひらサイズという気兼ねなさも相まって、実際によく売れていたのは前者の作品群でした。また、いずれの作品も2020年〜2021年に創られたものだったということも付記しておきましょう。
さて、私の好きな後者のコラージュの話をもう少し。写真撮影はバリバリOKでしたし、SNS上に写真を掲載している人も多かったので、私も特にお気に入りの2点だけ載せます。怒られたらすぐ消します。
これは2021年に製作された「夜の蜘蛛 アレニユ」という作品。周りは臙脂色、コラージュは白黒とこの対比がまず、美しい。完全を意味する球体=月が欠けていることから、夜が舞台であることが想像できる。「蜘蛛」は同じく8本脚の生物であるタコのことであろう。少女らしき人物は、タコの脚を持っており、捕まえたようにも、手放すようにも、凧上げのような形で散歩に行くようにも見える、絶妙な配置だ。本来であれば脚があるはずの少女の下部には珊瑚のような網状のものが。
さて、月、少女、タコ、珊瑚に共通するのは赤色だろう。赤い月、赤い唇、タコや珊瑚は言わずもがな。これら魅力的な白黒の4つのモチーフと周りに配置された臙脂色が強い印象をもたらすことで、無意識に突き刺さり、爾後、夢の中でモチーフたちが色彩を取り戻していくような独特な時間軸が付与されている。凄く平易な言葉で言えば、作品を見た後に夢の中で色を取り戻していくような鑑賞後の時間軸までがこの作品には折り畳み込まれているのが良いよね、ということです。うむ、よかった。
こちらは「私の見る全ての夢の中で」という作品です。無職じゃなければ確実に購入していた。こちらの作品の舞台は夜の荘園でしょうか。その前で右側では子供がご飯を食べながら泣いています。その左には上部にコウモリの顔がついた巨大なアミガサタケが。館からは助けなど来ず、ひょっとすれば館内全員が死んでいる、あるいは殺されてしまったような不吉な静寂がこの1枚にはあります。コウモリは胴体こそないもののアミガザタケが本来のコウモリらしい胴体と羽のようにも見えるし、あるいはマントのようにも見えます。後者のマントという見方で考えを進めていくならば、コウモリ&マントで吸血鬼のモチーフが導き出され、後ろの館はさしずめ吸血鬼の館。こう考えると館がその存在感を増してきます。そして、このコウモリの笑みは子供を吸血する喜びか、あるいは犠牲者の亡骸を食べるように強制しているサディズム的な愉悦か、あるいは子供の収穫の時期を待つ悪魔の哄笑のように見えてきます。こうした不気味さが非常に良いです。そもそも「全ての夢の中で」という言葉が示す通り、この構図は人を無意識的に不安にさせる構図なのかもしれません。というのも、ディープウェブ発で、不気味な動画として名高い「Blank Room Soup」もまさにこの構図。
こうした非現実的でありながら、心に訴えかけてくるコラージュというシステム、そして、人間の無意識下にある壊れた文脈と退廃した修辞学って一体なんなんでしょう。「ミシンと蝙蝠傘」の組み合わせの問答無用感というか。火星にあるミシンではダメで、イソギンチャクと蝙蝠傘ではダメという深層の美意識というか。原始から眠ったままの審美眼というか。
うまく言えないですけど、この展示は明日23日(火・祝)までやってますので、こうした眠った感覚を揺り動かして、束の間、覚醒をさせるべく、是非観に行ってください。写真撮影もOKなので、後日私のこの文章のようにグニュグニュと脳内で揉みしだくのもGOOD。是非!