本の帯からまずは自分で考えてみる
久々に本屋に寄った。書籍の平積みされた中に國分功一郎さんの「暇と退屈の理論学」があった。オードリーの若林さんも帯を書いていたこともあり手を取って、裏表紙に本文の一部を読んでみた。
「人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばらなない。」
私はその場で数分考えてしまった。肯定も否定もできないもどかしさと共に立ち止まった。その場では自分の回答は出なかった。家に帰ってゆっくりしている時でさえも、バラは何を意味するところなのか考えても納得いく答えは出なかった。
私は今カフェでのんびりと夏休みを感じている。コーヒーを片手に先日のバラの意味するところを考えている。
そもそも生きるとはなんだろうか。私は「何も考えずに生きてきた」とつくづく感じる。生きるということが何かわからず生きている。先を予測しない子供のように手当たり次第に生きてきた。だからいつまで経っても、右往左往しているのだろう。
生きるとは… 死ぬを否定し存在することである。死なないことが生きること。それならグータラして何もないことも生きることか。ただ呼吸し、適当に食事を済ませること?それなら先飲んだコーヒーは、生きていくには不必要の欲であるとしか言えない。作者が伝えたい“生きる“とは欲のことで、その欲望をそれらしい理由付けしているだけの自己満足な世界なのだろうか。
それであれば、“ただ生きる”において考察しても意味を持たないのかもしれない。
私は今“生きている”。“生きる”ができる環境なのであれば、その点から深化させなければならないのであろう。
私は毎年高野山へ参拝する。この時期の私にとって、原点に戻る行為といえる。私が私を取り戻す時期なのである。
その高野山のあちらこちらで見られる標語“生かせいのち”。この標語を見た時、すっと先日の“生きている”と合致した。生きることを考え、生きているとなる。その生きている中で“なぜ、生きている”かを考えなればならない。
では“生きている”に含まれるバラは何を意味するのか。単なる欲だけではない気がする。
たしかに私の使命(生きる)を考えるとコーヒーは生きていくための必須食材ではない。しかし、思考の間を取り持つコーヒーは、私に時間を生成し、豊熟させてくれる一つの材料となる。生きることへの彩りを添えてくれる。
ここにきてわかったことがある。
バラやコーヒーのように、出会いの中で双方が向き合い作用する時、欲ではなく必須に変わりえるだろう。バラにはバラのコーヒーにはコーヒーの人生がある。そこに私を見出す行為こそが生きている(存在している)ことへの確信になる。
バラやコーヒーと私の関係性の中に双方の作用が必要になる時、私がどこまで私を捨てることができるか。いや。私をどこまで感じないかが焦点になる。行為のあとの考察から知る(愛する)ことを感じる必要がある。そこにしか自分を見出すことは不可能である。
どこまで感謝できるか。そんな人生を送ることが本当の人生となるであろう。
さて。今読んでいる若林さんの本を読んでから國分さんの本を読むとするか。
あれ?本の題名は「暇と退屈の論理学」か。まてよ。暇が人生を作るということか?
読むのを楽しみにしておうかな。
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