命の大切さってどこで学べるのか。
今日の授業で、我がクラスの子は心悲しげな雰囲気に包まれていた。みんな、重い腰をあげるようにゆっくりと終礼の準備をしていた。しかし、なぜか、いつも山盛りになっている配布物はみんなで協力して配っていた。重い雰囲気の中に緊張感がそこにはあった。
放課後に終礼前の授業者に話を聞くと、その不均衡さに納得がいった。
こどもホスピスの動画を見ていたらしい。
感情移入して泣いてる子がいたり、自分の溢れ出す感情を我慢している子がいた。そんな中、集中力が切れている子も数人いたみたいで、「人間として大切なものが足りてないなあ」と呟く教員もいた。
僕の直感は、肯定するものではなかった。逆にその子の気持ちになってみたいとも思った。
もしかしたら、死を近くに感じたことがない幸せ者なのかもしれない。死を受け入れられなく、生きているのが精一杯なのかもしれない。どーだろ。
たしかに、社会における家族形態の話を持ち出せば、核家族化が進む中で、身近な死に触れる機会も少なくなっているだろう。調べてみると、ペットと共に住む世帯数も減っているらしい。
だが。しかしだ。それだけの理由だけなのか。原因の一つを説明できただけで、その人のことを理解できたのだろうか。
そんな茫々たる心のまま職場を後にした。
僕の職場から家までは自転車で10分かからない。いつもと同じ道では帰らず、少し遠まりして帰った。ゆっくりペダルを踏み締め、いつもより黒々としたコンクリートを見ていた。普段、気にも留めない店を数件見ることもできた。
今の気持ちにしか見えない店なのかもしれないなあ。猫も杓子も往々にして気づく時にしか気づかないかもしれないなあ。
命の大切さって、どこで学べるかわからない。でも、その準備をさせる必要はあるよなあ。どこで学ぶかわからないんだからこそ、どう伝えるかに魂を込めて接するしかないんよなあ。
帰り道、いつもより勾配が高く感じたが、僕は勢いよくこき続けた。
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