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唯一の記憶
黒、つやつやした黒、ぼつぼつした黒、グレー、オレンジと茶色の間みたいな色、白、花柄、キラキラした白、履き古した薄紫、磨きのかかったダークブラウン、ヒールの高いマットブラック、鈍い光沢のシルバー、ネイビー、黒、外側のすり減ったかつての光沢を失った鈍い色のブラック
2年半前の私の目にほぼ毎日映っていた景色。
歩いてても座っていても立っていても、ずっと吐き気か頭痛がしていた。特に電車とバスの中は、その閉鎖的な空間と金属音も相まって症状悪化の温床だった。
だからずっとしゃがみ込んでいた。
電車の中や駅のホームでしゃがみ込んでいても、席を譲ったり声をかけたりしてくれた人は誰もいなかった。1人を除いて。
この頃は、頭が働いていなかったことに加えて、記憶を抹消したいという無意識の気持ちから、そもそも記憶がほぼ存在しないが、あるおじさんのことだけは憶えている。
その日は1限に「何でいつも遅れてくるの?」という先生の授業がある日。だから木曜日だ。
もう間に合わない時間だけど、起きられる日はなるべく学校に行こうと努めていた私。
新宿駅の小田急線のホームで泣いていた。
理由もないのに、悲しくもないのに涙が出る。
この時に感じているとしたら恐怖の感情。
すると、電車の中で座って待っていたおじさんが出てきて、
「大丈夫?駅員さん呼ぼうか」と。
私は話せないのでふるふると強めに頭を振った。
おじさんは元の席に戻って行ったが、私の涙は止まらない。
何だか気持ち悪くなってきたな。そろそろ立てないかも。
数分そうしていると、さっきのおじさんがまたやってきた。
「やっぱり駅員さん呼ぶよ」
私はまた頭を振ってその場から離れた。
目には今まで以上に涙が溜まっていたが、それは恐怖よりも嬉しさという言う方が、その時の私の感情に近いかもしれないものだった。
そこでようやく、今の自分が「おかしい」と気づかされた。
苦しくてうずくまっている中視線を上げても、死んだ目でスマホを見つめる人たちであふれている「東京」や「通勤電車」という場所が嫌いになりかけていたけど、このおじさんのような行動を取れる人になろうと、私の心に久しぶりにポジティブな気持ちが生まれた瞬間だった。