七、本来、反面教師などいらないのだ。
この世界に対し
様々な発言があっていい。
私はありのままで生きているから
発言した言葉が大きくなる時もある。
それでも人間だし
間違えたり指摘されて
的を得てなかったら謝る。
ただ、自分以外の特定な対象人物がいる場合は
よく考えてから呟くこと。
皆、価値観は違う。
だからこそ気をつけなきゃね。
今は何か他人の言葉尻を捕らえて
粗を探して突くのが主流だけど。
冷静さを失ったら小さな争いは絶えない。
意見が違うのは当たり前だし
されど、寄り添う気持ちは何よりも大切。
私は保育士をしている。
子どもに関わる中で大切にしていることは
他人にも心があることを教え
傷つけてしまったら謝る
それでも
自分(の心)は殺さず
悲しくなったり怒って泣いても
切り替える強さ
なるべく笑って過ごすこと。
子どもはこの世界に生きていくには
まだわからないことが多い。
だから、大人が見本になって
教えてあげなきゃいけないのだ。
逆を言えば、それが出来ない大人たちは
可哀想だなぁとなる。
自分を守るプライドだけ大きくなり
他人を攻撃することで
自分の存在を表しているのは
何だか可哀想なのだ。
先程も述べた、
意図的ではない
ふとした時の間違いは謝ればいい。
謝ってもなお、それを叩くのは違うし
そういった人も
私には可哀想に感じるのだ。
他人を攻撃せずとも
自分を表現する方法はたくさんある。
歌を歌う。楽器を弾く。絵を描く。
体を動かす。ダンスをする。料理を作る。
物語を書く。書道をする。物を作る。などなど。
何か不の感情がどうしてもあって
抑え切れないなら
フィクションとして発信してもいい。
虚構であれば、責めることも
責められることもない世界なのだ。
私はそれが音楽だったから。
自由に曲を作った。
本心はわかってくれよ、と歌った。
けど、それが嘘か真なのかは
直接は言わないし
響く人、響かない人がいて当たり前だから。
それでいいの。
私は小さい頃。
親に反面教師だからと言われ育てられた。
それは自分の世界を縛り付け
子どもの自分には苦しかったと思う。
大人になった今だからこそ
私との生き方の考えが違うことに
気づけたのだ。
そして、この事実は
親自身を否定しているわけではなく
誰かに攻撃してほしいとも決して思わない。
これは私と親の関係性の問題であって
誰も咎められないのだ。
それを踏まえた上で、私だから発信する。
本来、反面教師などいらないのだ。
私は愛を持って
真っ直ぐな自分の生き方を
子どもたちに見せること。
心を失いかけている大人たちに
感情が揺さぶるきっかけになれば
と表現していくこと。
それが今の私の使命だと思っている。
バランス良く、なるべく笑って。