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実家を手放した「110番」

こんにちは。
CMプランナー、ときどき、副業ライターの松田珠実です。

1月10日は、110番の日、だそうです。

あなたには、自分が呼んでいないのに、自宅にパトカーが来た経験は、ありますか?わたしには、あります。

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実家は、兵庫県の尼崎市にあった。
ふだん東京で働いている、一人っ子のわたしには、家族全員が亡くなってしまった今、実家を維持するだけの、気力も体力も財力もなく、数年前に実家を手放した。

手放すいろんな言い訳はあったが、直接的な理由は「110番」。

誰も住んでいない実家に、空き巣が入り、近所の人が通報してくれたのだ。
東京からあわてて、尼崎に帰り、かんたんな事情聴取を受けた。

「何か、なくなっているものはありませんか?」

わたしには、答えることができなかった。

「家は生きている」と言う。
オカンが長らく働いて、やっと建てた「小さな城」。このままだと、誰も住んでいない「小さな城」は、ゆるやかに死んでいってしまう。
そんな「哀れな城の姿」は、亡くなったオカンも見たくないだろうと、自分に都合よく、想像した。


オカンが生きていた当時、オカンは尼崎で、わたしは東京で、と離れて暮らしていた。

顔を合わせるのは、お正月ぐらい。
わたしが勤める会社には、決まった「夏休み」というものがなく、毎年、ずるずると仕事をしているうちに、「長期間」の休みを取り損ねる。

休みが取れても、わたしの「帰省」への優先度は低く、オカンがLINEを覚えてからというものの、「ビデオ通話」をするのが関の山だった。

それぐらい仕事は楽しく、わたしにとっての最優先事項だったのだ。


コロナ禍中に、オカンが末期がんになり、わたしもリモート出社が当たり前になった。
オカンの余命は、あと半年だと言う。
2つのタイミングが重なり、わたしはしばらくオカンと実家で暮らしてみようと決めた。

「実家あるある」だと思うが、ウチの実家でも、押し入れという押し入れには、ギッチリとものが詰め込まれていた。80代で一人暮らしをしていたオカンに対して、すべてのものの量が、いくらなんでも多すぎる。

来客用の布団が10組以上。ハンドメイド好きだったオカンが、今までに習ってきた書道や陶芸の作品たち。関西チックな「ヒョウそのものの柄」のブラウスや、ゴールドの蝶が舞うワンピースなど手作りの服。

鍋や食器、タッパー。海苔など乾物類の食品ストックや、お菓子の空き箱や缶カンも、マトリョーシカのように次から次へと現れた。


相当不謹慎な娘だが、いっしょに暮らしている最中に「これ、オカンが死んだら、片付けやばいな」と、「燃えるゴミ」の日にも、「燃えないゴミ」の日にも、バレないように、少しずつものを捨てた。

こんなときだけ、センチメンタルでどうかと思うが、「オカンが死んでしまったら、思い出に押しつぶされて、わたしには、いろんなものを捨てることはできないかも」と、かんたんに予測できたからだ。


母娘で一緒に暮らしはじめたはいいものの、オカンは余命宣告よりは少し短く、半年も経たずに死んでしまった。
最後の1ヶ月は病院に入院していたから、実質は4ヶ月半ぐらいだろう。


実家と向き合うことは、オカンの人生と向き合うことでもあった。
オカンが死んでからも、押し入れは、オカンが生きた証、で埋め尽くされていた。

ただの「もの」だ、と思おうとしたけれど。
一つずつ、いろんなものを捨てるたびに、オカンを「何度も死なせる」ような気がして、ベタに泣いた。

8ヶ月以上も、東京と尼崎を行き来して、たった一人で遺品整理をしていたのに「110番」で「実家からなくなったもの」を、一つも言うことができなかったとき。

わたしは、おそらく天国で暮らすオカンに「もうええよな。わたし、頑張ったよな」と、手を合わせて赦しを乞うた。

それから日も経たず、たくさんのものを残したまま、実家は解体された。

ブルドーザーの大きなシャベルが、実家を一撃する瞬間に立ち会うことは、弱いわたしには、できなかった。


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