【読書メモ】2022.5.8 ー 竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)Part2

しばらく下書きでほったらかしだったので、最後まで書きました。

第3章 現象学の方法

自然的世界像を覆うドクサを、判断停止によって剥ぎ取っていき、最後に到達するのが「純粋意識」である。これは、デカルトの懐疑的方法による「コギト」の取り出し方と類似している。ただし、デカルトが「コギト」を神の存在証明として用いたのに対し、フッサールは「純粋意識」を「人間の経験や世界像一般を可能にしているいちばん基礎のはたらき」としている点において、両者は異なる。

現象学的な「構成」とは、対象が私たちの意識の働きかけから独立して存在することはないことを意味した言葉である。逆を言うと、人間の全ての具体的体験は構成されたものである。

第4章 現象学の展開

(1)近代的な世界像の成立

ガリレイの測定術に端を発する「自然の数学化」によって、時間や空間が均質化・数値化され、自然が客観化された。

自然が客観化されたことによって、世界を客観的に正しく認識できるという理念を打ち立てた。

近代自然科学の実証主義が人文科学にも影響を及ぼした。心理学においても、心の自然化により、心的世界が物理的世界の秩序に従う形で把握されるようになった。

(2)超越論的主観性と間主観性

他我とは、<私>(超越論的自我)と同じような主観を持っている主体のことである。

間主観性とは、<私>と他我の関係ではなく、<私>の確信である。間主観性が成立するには二つの条件が必要。一つは「根源的創造作用」によって、私は、他我の実在を確信すること。そしてもう一つは、他我が私と同じ身体を持つということにおいて、同様に超越としての客観世界を共に経験していると確信することである。

第5章 現象学の探究

(2)サルトルとポンティ

『存在と無』において、人間存在のありようを「即自」と「対自」という二項対立で捉えた。「即自」はそれ自体で完結している在り方で、物質的。「対自」は「即自」的な在り方に「否定」や「欠如」を走らせて、自らを超え出ていこうとする在り方。

フッサール現象学とは違うのは、サルトルが意識=自由の本質と捉えたのに対し、フッサールは、意識は自由にならないもの、恣意性を超えたものとして捉えたことである。あくまで「現実」が人間の認識の根本条件であることを主張することが大事。

(3)ハイデガー存在論の挑戦

ハイデガーは『存在と時間』の中で「ものがあるとはどういうことか」という存在論的問いを投げかけた。その問いを進めるのに必要な方法として、現象学を用いた。

キーワードは「気遣い」と「道具連関」の2つ。「気遣い」は、事物を主観的な価値に沿って「意味」として構成する「力」のことである。「道具連関」は事物の因果関係である。

機械と動力の関係のように、「道具連関」は対象化されるが、「気遣い」は対象化されない。むしろ対象化する。「気遣い」は自己規定的である。ただし「気遣い」が「道具連関」に優先されるような関係ではなく、むしろ相互に認め合う「意味開示論」的な関係にある。つまり、「気遣い」によって「事物」の意味が生成される一方で、「事物」が「気遣い」の対象として現れるような相互的な関係である。

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