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武蔵野と私
「枯れ始めた木々を通り抜けると、自分がそよそよとした風の中を歩いている。」
それが、私が見た武蔵野の初秋の夢だった。
でも、実際の武蔵野は、静寂のヴェールに包まれているようだった。田舎と都市の境にある絶好な場所で、武蔵野はどんな日でも美しく見える。晴れの日には、田畑から農作の声と小鳥の雑談が聞こえてきて、それに合わせたかのように、樹木が揺らぎ、野ばらが微笑んでくれる。曇りの日には、少し不安を感じた空を慰めるかのような雲が様々な形を作り、まるで「ご自由にご想像ください」と声を掛けてくれる。雨の日には、人々の急いだ足音にリズムを合わせていた雨が、時にはザーザー、時にはしとしと、いろいろな音を作り上げている。
もしゆったりとしたデートコースを探したいカップルがいたら、彼女もしくは彼氏が他人の目線を気にせずイチャイチャしたいなら、武蔵野をおすすめしても反論はないだろう。
しかし、私にとって、最初に日本に来た何日かは、実にドラマチックな毎日だった。
先輩と一緒にタクシーを捕まえた時、思わず運転手のほうのドアを開けたり、何もない平坦な道なのに、自転車で転んだり、行列のできるお店で並ぶ時に、そんなに時間を待たず、一蘭ラーメンがすぐに食べられるのがラッキーだと思った瞬間に、看板にぶつかったりした。
それでも、まだ日本にやってきて1か月も経っていない私はこの身心ともに、武蔵野の虜になってしまった。
きっと好奇心の溢れている地元の方だったら、このような質問を投げたくなるだろう。
「なぜ、武蔵野へ来たいと思いましたか」。
もし、その質問が武蔵野ではなく日本だったら、頭の中に回答が刻まれていたかのように、私は答えをすぐ出せるだろう。
「アニメが好きですから」
「この目で本当の日本を見てみたいと思いました。」
「ずっと日本語を勉強してきたから、日本に来るのが当たり前だと思いました。」
しかし、なぜ私は武蔵野に住むことにこだわったのだろうか。
日本へやってきた留学生はみな、憧れや不安を抱え、この美しいところにやってきたと思う。ダイエットと言いながら、おいしいものが目の前だったら食べてしまったり、時には新しくできた友達と一緒に遊んだりする。
私と同じように、初めて一人暮らしをする人もたくさんいるし、色々なことを背負った人もいる。方向音痴には優しくない電車の乗り換えや料理が下手な人がつい自炊を始めなければならないことなど、親から離れ、今まで暮らしていた環境から全く別の環境に慣れることはとても難しいことで、必ずつらいことや孤独感を味わうだろうと思う。
そのうちの一人で、初めて日本での長期留学に来た私だが、ついへまをしてハッピーオーラを出していますが、本当はとても心細かった。実は日本へ来る直前まで、家族が入院して、今回の留学を諦めようという考えもあった。それでもやはり日本に行きたいという夢が諦められず、そういう矛盾した気持ちが私の心の中にあった。
そして、「あそこに住み始めたら」という想像が来日前の一か月前から膨らんでいた。私の心の癒しとなったのが、かつて国木田独歩が書いた「武蔵野」でした。
みなさんはお気づきだっただろうか。武蔵野周辺の図書館で行った様々な読者アンケートのうち、常にランキング上位だったのが、この国木田独歩の「武蔵野」だ。
「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。」
なぜ国木田独歩はこう書いたのだろう。
自分一人で武蔵野を散策したら、もし時間がたっぷりあれば、地図を開かなくても、ゆっくりと町を歩いているうちに、きっと新しい出会いがありそうだ。道端に凛々しい花が咲いていたり、保育士が子供を連れて横断歩道を渡っていたり、暖かさと美しさを、この武蔵野がおのずと教えてくれる。
この一か月の間、武蔵野の四季を唄えた国木田独歩の気持ちを少しでも理解しようと思って、いろいろな場所を徒歩で散策してみた。それが一番幸せな時間だった。初秋に入った武蔵野が与えてくれたのが、緑と茜が混ざった美であって、人も景色も一層恋しく感じる。多分イヤホンなどをつけていたら、周りの景色にはもう見向きもせず、ただ機械的に通り過ぎるだろう。インターネットの中ではなくて、武蔵野の新発見を探して、これからも「旅」をすると思う。
➤2019年秋初稿・井の頭公園のカフェにて