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CD『まばたき』レビューが届きました!

CD『まばたき』発売から2ヵ月!
たくさんみなさん聴いてもらってありがとうございます!そんななか、2005年頃(←たぶん)神戸ビッグアップルで出会い、それ以来数えきれないくらいのライブを見続けてくれた高尾康正さんが『まばたき』レビューを書いてくださいました!
長文ですが、面白いです。
ゆっくり読んでみてください。そして、
ナガオクミnewEP『まばたき』ぜひ聴いてください!

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これは、いつ、そして何処なのだろう?
穏やかなピアノの音の中から虫の声が、そして程なく何か踏みしめるような音が聴こえてくる。
虫の声がするのだから、やはり秋だろう。だけど「何か踏みしめるような音」は草というよりも硬い、サクサクとした、むしろ雪を踏むときの音にも聴こえる。
そこで、こんな場面を思い付く──最初の場面は確かに秋の夜。その光景がフェイドアウトし、入れ換わるように冬、雪の上を歩く光景が現れてくる。
そして次の曲に入ると、柔らかなシンセやシンバルの刻み、ピチカート等の音が流れてくる──あたかも、冬が明け、暖かな春の陽射しが射し込む瞬間のように。

ナガオクミさんの新作《まばたき》は5曲で11分足らず、そしてオープニングとエンディングは今回の全編曲を手掛けた尾方伯郎さん(クミさんの2009年作《ケシキス》でも2曲に参加)による、いずれも1分足らずのインスト曲なのだから、全体としても小品と言ってもいいだろう。
だけどこの小品は、思いもよらない鮮やかな光景を、たくさん見せてくれるのだ。

オープニングのインスト曲〈僕は月を追いかける〉に続く〈わたしの青空〉。
ライヴでもお馴染みだったこの曲は、先述したように柔らかな音色からポップなバンド・サウンドへと広がり、そしてクミさんの歌声──ダブル・ヴォーカルになっているので、より柔らかく聴こえる──が物語を歌い始める。
僕の耳を先ず惹き付けたのは、春の空気のように柔らかな管弦。大編成じゃないのに物足りなさなんて全く感じない、迫力を出すのではなくて歌に自然と寄り添う感触は、やっぱりブラジル音楽に近いかな。
だが、聴き進めていくうちに、単に心地好いだけではない場面が幾つも出てくる。思わぬところでブレイクが入ったり、変拍子のように聴こえたり……まるで、歌とサウンドで描く“だまし絵”のようにもなっていくのだ。

ここで少し脱線させていただきたい。
僕が近年目にしたミュージシャンのインタビューで最も印象に残ったのは、モーニング娘。を昨年(2021年)12月で卒業した佐藤優樹さんという女性アイドルのものだった。
モーニング娘。の曲で最も好きなものは?という話の中で、佐藤さんはこのような意味のことを語っていたのだ。
「この歌の本性は歌詞じゃなくて、和声やベースラインの動きの中にこそあるんじゃないか」
──歌詞を歌う歌手という立場の人が、こんな発言をするなんて! もちろん「歌と演奏は決して切り離されるものではない」というのは常識だと思ってきたけど、ここまで吹っ切った発言なんて、初めて見たから。
編曲に効果以上の「物語」を読み取ることも確かに出来る──そういうことを、改めて思い知らされたのだった。
今聴いてるサウンドの中で、このベースラインはどういう「物語」を語っているのだろう? じゃあ、このハイハットは?
そういう捉え方って、リミックスやダブというよりも、むしろ映画やマンガで使われる「スピンオフ」という言い方が相応しいかもしれない。同じ世界を、端役とされる者の立場からの“主観”としても見てみるという。

さて、話を〈わたしの青空〉に戻して──そういう聴きかたをしてみると、歌とサウンドが同じ事実をそれぞれの視点で「語って」いて、それがこの曲の世界を広げているのだと分かる。
特に、最後のサビの部分──ブレイクが目立ち、一定のテンポから乱れてくるように聴こえる。まるで、まばたきが誰の目から見ても大きく、涙をこらえているように見えてくるかのごとく。
そして「一瞬だっていいんだ うれしくなってそして愛したいよ」の最後の一音「よ」が間を置き──跳ぶ前に一旦身をかがめるように──そして、跳ね上がる。
上を向いて歩こう。涙がこぼれないように。

軽やかだけど、でもちょっとひんやりしてるかな?
そんなイントロで始まる〈恋〉は確かに“春待ち”の歌なのだな。ポップスとは、ここではない何処か、今ではない何時かへ思いを馳せるものでもあるのだから。
I´ve been mellow──これは南沙織〈春の予感〉の副題だったけど、そんな言葉を思い出させるような、それに軽やかさが加わった音と、クミさんの「君の言葉がほどけたら 滲んでゆく文字の花」という歌声が呼応し合う。
そして「僕は僕じゃなくなった からだじゅうがぜんぶ君」と歌われた後の「チュルッチュッチュッチュ」というスキャットで、歌が歌詞じゃなくなった。更に、それを受け継ぐギターソロで、歌が声じゃなくなった。「僕が僕じゃなくなった」という言葉に応えるかのように。
そういえば今回のCDジャケットでは、クミさんの身体は身体じゃなくなって、文字になっているのだった。
鮮やかで、春っぽい空気感の文字たちに。

ところで、僕がクミさんのことを初めて知ったのは御多分に漏れず、1998年、小泉今日子さんに提供した〈サヨナララ〉を聴いたときだったのだけど(クミさん自身のヴァージョンは、2003年の《ハナピラ・ヴ》に収められている)、その中で特に印象に残ったフレーズは「よく食べて よく眠れ」というものだった。そして後の〈紫陽花〉でも「何か食べよう」というフレーズで締めくくられている。
〈ごはん〉と名付けられた、たった2分程度の歌──「食べる」ということは、たぶん、人が生活する中、1日の中での水平器のようなものなのだ。何かを確認し、保っておくための。
「ぼくらの恋は 祝福の日に死んだ」の部分で歌とベースラインが時々ユニゾンのような、やっぱり違うような、そんな寄り添い方をしてる。ベースといえば大抵は和声の基音を受け持つものだから、歌の旋律とは違うフレーズを奏でるのだけど、その瞬間はまるで、普段は別々の場所にいる二人がその一時だけ並んで座り、その後はまた別の道を歩き、そして落ち着くべきところに落ち着く──そんな物語を語っているかのように。
「ぼく」と「きみ」は全く同じじゃないし、完全に分かり合えないかもしれないけど、それでも並んだり、手をつなぐことは出来るし、もしかしたら「味」という感覚で繋がることが出来るかもしれない。
それが確かめられるのが、ごはんを食べる時間という“水平器”なのかもしれない。この歌のように短い時間であったとしても。
もしかしたら……この〈ごはん〉という歌って、クミさんにとってのジョン・レノン《ジョンの魂》のようなものなんじゃないか? 心が極めてシンプルに凝縮され、歌という形になったかのような。
聴きながらそんなことも、ふと思った。

エンディング〈花は君に問いかける〉では、オープニングがピアノのみだったのに対して、〈ごはん〉を引き継ぐような小バンド編成とコーラスの音で閉じてゆく。
晩御飯の後の残り香が次第に薄れてゆくかのように。
そういう流れから僕は 、この作品は5曲というよりも「5つのパートで作られた1曲」という聴きかたも出来るんじゃないか?と思うようになっていった。
ちっぽけで他愛ない、だけど……自分にとっては守り抜きたい、そんなものたちにとっての短い1日のエピソード、個々では全く別の話が、最後には綺麗にまとまってゆく、そんな短い映画のような。

──という物語を、僕は聴きながら思い付いたのだけど、これを今から聴くあなたならば、どの様な物語を思い描けるだろう?
人が生きている限り刻み続ける「まばたき」というリズムに乗せて。

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