2013一橋大学/国語/第二問(近代文語文)/解答解説
【2013年一橋大学/国語/第二問(近代文語文)/解答解説】
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〈本文理解〉
出典は清沢満之「科学と宗教」。著者は真宗大谷派の僧侶で宗教哲学者。
1️⃣ 今の時は則ち科学旺盛と称す。然り、之を前時に比するに、頗(すこぶ)る見るべきものあり。然るに(一方)、此科学旺盛と共に、亦世に一流の謬見者(間違った見方をする者)を生ずるものあるは、吾人(私)の警戒すべきことに属す。彼の科学心酔者と云ふべき人士の言論即ち是なり。彼れ心酔者は、此の科学的知識は、独力以て(それだけで)宇宙の根底を検覈(けんかく/厳密に調べる)し、万化の実際(あらゆる変化の実態)を窮尽するに足るものと盲信し、一切の事件を挙げて、之を科学の管下に致さんことを欲す。乃ち、哲学をして科学的たらしめ(哲学を科学のように扱い)、宗教をして科学的たらしめ、世界を科学的たらしむべしと云ふ。
2️⃣ 「若し自ら能く科学に熟達せるの人士にして、此言あらしめば、吾人は寧ろ其自ら信ずるの厚きに服せずんばあらず」(傍線一)。然れども、其実際は、大いに奇異の感を免れざるあり。何となれば(なぜならば)、彼の科学全権を呼号するの人士は、多くは自ら科学に熟せず、只科学の皮相に眩惑し、彼の燦燗(さんらん)の光輝を取り来たりて、以て一切を塗飾せんとするものなればなり(全てをごまかそうとするからである)。吾人は其「広言」(傍線ア)に迷はざるべからざるなり(混乱してしまいがちだ)。
3️⃣ 自ら科学に熟せるの人士は、科学の範囲の極めて制限あるものなるを知り、又其作用の決して全能にあらざることを識る。科学は常に与へられたる材料によりて制限せられ、与へられたる法則によりて活動す。与へられたる材料とは、所謂(いわゆる)実験の事実なり。与へられたる法則とは所謂幾多の原理なり。科学は決して事実と原理とを左右する能はずして、却(かえ)って彼(事実と原理)の為に左右せらると、是れ忠実なる科学者の常に承認する所なり。
4️⃣ 乃ち知るべし、哲学宗教の事の如き、決して科学の左右し能はざる(できない)所なることを。何となれば(なぜなら)、宗教は事実にして、哲学は原理の学なればなり(であるからである)。換言せば、宗教は一種の事実にして、科学の基礎材料となるべきもの、若(も)し科学者にして、此基礎により此材料を採りて、以て宗教の一科学を構成せんとせば(しようとするならば)、其事決して不可なるにあらず(不可能でない)。(ex.宗教学)。而して(そして)哲学は是れ固(もと)より「究竟(くきょう)」(傍線イ)原理の学、此学立ちて後、始めて諸学立つことを得るの根基(根元)。諸学の根本原理は、皆是れ哲学の考究検定を経べきもの。彼の真正なる科学者が、常に此根本を記憶し、其自家の科学が本来仮定的のものなることを忘れざるは、学者の態度を失却せざるものと云ふべし。
5️⃣ 夫れ(そもそも)此の如く(このように)、科学は事実と原理とを基本として成立するもの。而して宗教は一種の根本的事実、哲学は是れ究竟原理の学。則ち宗教をして科学的たらしめ、哲学をして科学的たらしめざるべからず(哲学を科学のように扱わないわけにはいかない)と云ふが如きは、全く不成立の言句と云はざるべからず(全く現実には成立しない言葉だと言わないわけにはいかない)。
〈設問解説〉
問一 「若し自ら能く科学に熟達せるの人士にして、此言あらしめば、吾人は寧ろ其自ら信ずるの厚きに服せずんばあらず。」(傍線一)を、文脈をふまえつつ訳しなさい。
現代語訳問題。まずは逐語訳を心がける。「若し」→「もし」。「自ら」→「みずから/自身」。「能く」→「できる」。「科学に熟達せる人士にして」、ここでの「熟達」は認識面のことなので、「皮相」の逆をとり、「科学の本質に通暁している人物で」とした。「此言あらしめば」、ここでの「しめば」は仮定用法で「~と言うならば」とし、「此言」を具体化する。傍線2文前「科学的知識は/独力以て宇宙の根底を検覈し/万化の実際を窮尽するものに足るものと盲信し/一切の事件を挙げて/科学の管下に致さんことを欲す」を集約して、「世界の一切を科学の力で解明したいと言うならば」とした。
「吾人は」→「私は」。「寧ろ」→「むしろ/かえって」。「其自ら信ずるの厚きに服せ」→「その人が科学の力を深く信じていることに敬服する」。「ずんばあらず」は漢文訓読の転用だが、二重否定で訳としては、A「~しないわけにはいかない」(不敢不~)と、B「~しないことはない」(未嘗不~)が考えられる。ここでの文脈は、傍線の直後で、「科学に熟」しない輩が「科学全権を呼号する」ことを指摘した上で、「科学に熟せるの人士は/科学の範囲の極めて制限あるものなるを知り/其作用の決して全能にあらざるを知る」(3️⃣)と述べる。ならば、科学の本質を理解している者なら科学の全能性に疑問を持つ、ということになり、傍線自体が含み(皮肉)のある表現だと分かる。ここから、先の「ずんばあらず」の訳はBに決する。
<GV解答例>
もし自身が科学の本質に通暁している人物で、世界の一切を科学の力で解明したいと言うならば、私はかえってその人が科学の力を深く信じていることに敬服しないこともない。(80)
<参考 S台解答例>
もし科学の世界の本質を真に理解している人が科学の万能性を言うのならば、我々はその信念に対し敬服の念を抱かないわけにはいかない。(63)
<参考 RED本解答例>
もし自ら科学によく精通している人が、すべてを科学で説明できると言うのであれば、私はむしろその科学の力を信じる思いの強さに感服するしかない。(69)
問二 (文脈に即した意味)
<GV解答例>
ア(広言) 大げさなもの言い
イ(究竟) 極めつけの
問三 筆者は科学と宗教・哲学との関係をどのように考えているのか。全体をふまえて述べなさい。(100字以内)
内容説明問題(要旨)。直接的には科学と宗教・哲学の「関係」を聞いているわけだから、4️⃣「乃ち知るべし」以下、「哲学宗教の事の如き/決して科学の左右し能はざる所なること」を参照して、「宗教・哲学は科学に左右されない」(A)を解答の結びにおく。次にAの根拠として、「何となれば」(4️⃣)以下、「宗教は事実にして/哲学は原理の学なればなり」(B)を参照するのだが、これだけでは説明として不足する。
そこで3️⃣に遡り、「科学の範囲の極めて制限あるもの/科学は与へられたる材料によりて制限せられ/与へられたる法則によりて活動す/(その)材料とは…実験の事実なり/(その)法則とは…幾多の原理なり」を拾う。これを先のBと合わせて整理すると、「宗教は事実であり哲学は原理の学である(B)→科学は事実と法則に基づき/その範囲内で展開する→宗教・哲学は科学に左右されない(A)/科学の前提となるものである」という論理になる。
さらに、5️⃣(本文③段落)より「宗教は、一種の根本的事実、哲学は是れ究竟原理の学」という点に注意したい。宗教、哲学いずれもただの事実、原理というのではなく、根本的、究極的(究竟) なものだというのである。このうち、「哲学=究極的原理」については4️⃣(本文②段落後半)に詳しい。「諸学立つことを得るの根基/諸学の根本原理は…哲学の考究検定を経べきもの」としているわけだから、いわば原理の中の原理、「事物の本質を規定する究極的原理」ということだろう。「宗教=根本的事実」については、本文に説明がないので「個別の人間(実存)を規定する根本的事実」という理解を加えておいた。つまり、哲学が(本来)、人間存在の普遍的真理を追究するのに対して、宗教はあくまで個別の存在の信仰に基づく、主観的な、それゆえに深い(神の前に一人立つ)真実なのである。
<GV解答例>
宗教は個別の人間を規定する根本的事実であり、哲学は世界の本質を規定する究極的原理であるが、科学が事実と法則に基づきその範囲内で展開する学である以上、宗教・哲学は科学の前提となるもので、その逆ではない。(100)
<参考 S台解答例>
科学は万能ではなく、事実と原理に基づいてその上に仮定されるものであることを本質とするのであるから、一種の根本的事実である宗教や諸学の根本原理である哲学のあり方を左右し支配することはできないという関係。(100)
<参考 RED本解答例>
科学は実験による事実と法則という原理により成立するが、宗教は根本的な事実を調べ、哲学は原理を明らかにするという科学の基礎にあたる学問であり、科学によって宗教、哲学を捉えることは不可能だと考える。(97)