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2021一橋大学/国語/第二問/解答解説

【21一橋国語/第二問/解答解説】

〈本文理解〉
出典は大西祝「悲哀の快感」(文語文)。
①段落。吾れの人の性を顧るに喜を喜ぶ者と共に喜ぶの心は悲しむ者と共に悲しむの心よりも遥に薄弱なりと云はざるを得す。是れ一は社会的の必要に出でて所謂る社会的の練習によりて同悲の性情が同喜の性情よりも其発達完全なるによるらん。然れども亦一は快楽を享受する者を見る時は吾れ人の性情として抑え難き嫉みてふものが大なる妨害を為すによるならん(→人間というのは他人の喜びを喜ぶ場合が他人の悲しみを悲しむ場合よりもはるかに少ないと言わざるえない。その理由はまず、社会の必要により同情心の方が鍛えられるからだが、もう一つ、快楽を享受する者を見る時は人の性として抑え難い嫉みというものが共に喜ぶのを強く妨げるからだろう)。故にジャン・パウルは「他の喜を喜ぶは天使の心」(傍線部一)、其悲を悲しむは人間の心と云へり。…
②段落。故に予は思ふ、小説若しくは戯曲を読んで可憐なる少女の悲哀に泣くを見て我も共に泣く時の心の中に言ひ難き快味(スウィートネス)を覚ゆるは是れ我社会的の性情を満足せしむるによるならんと。我他の為めに泣く時は我狭隘なる、窮屈なる利己の圧束を脱して我心は人類の大なるが如くに大に、社会の広きが如くに広きを覚ゆ。是れ我心の一時の救(サルヴェーション)にあらざる乎。狭隘なる利己の心は是れ我本真の性にあらず。他人の為めに涙を流して他と我との差別を忘るるの時は是れ我本性の光明を放つ瞬間なり(私が他人の為に泣く時、狭隘で窮屈な利己の束縛を逃れてその心は人類のように大きくなり、社会のように広くなる。このことは自己の心にとってひと時の救済ではないか。狭隘な利己心は自己の本性ではない。他人の為に涙を流して彼我の区別を忘れる瞬間、自己はその本性の光を放つのである)。吾れ人は其の本性に復らんことを求む。是れ之れによりて仮我を去つて実我を「得ればなり」(傍線部ア)。…
③段落。…我若し我身を忘れて他人の為めに落涙する時は我心は恰も敵視世界の塵埃を洗ひ去られたるが如きの感「なくんばあらず」(傍線部イ)。他人の悲哀をもて我心を充たし、其悲哀と我とは別物にあらざるが如くに思ふの瞬間は自らこぼす涙によりて我諸悪を洗ひ去られたるが如きの思あり(→私が自分のことを忘れて他人の為に涙を流す時、その心にはちょうど他人を敵視する俗世間の塵埃を洗い去ったかのような感慨があるはずだ。他人の悲哀が自己を満たし、その悲哀が自己のもののように思える瞬間は、流れる涙で自己に巣食う諸悪が洗い流されるかのような思いがする)。譬えば天然界の真美景が接するか人間界の真美人に接せば只だ恍惚として其前に直立して我を忘れたるの有様に陥るべし。只だ唯だ其美しさに見取れて慾も思もなきに至るべし。此境界に至りてこそ始めて真にその美を嘆美すると云ふべけれ。此境界に至れるの瞬間は、殆ど一切の煩悩を打忘れて我心が一時の浄楽に入れるの有様と「云ひて可ならん」(傍線部ウ)。「他人の悲哀に我身を打忘れて熱き涙を流す時も亦た右と同じく一時の救に入れるが如きの思あるなり」(傍線部二)。


〈設問解説〉
問一「得ればなり」(傍線ア)、「なくんばあらず」(傍線イ)、「云ひて可ならん」(傍線ウ)を現代語に訳しなさい。

語句の意味。アは「已然形+ば」と断定「なり」に注意して「得る/から/である」。イは「否定の連用(〜ずんばあらず)」で「ないわけではない→あるはずだ」。ウは「可なり」(よい)と推量「ん」に注意して「言って/よい/だろう」。

〈GV解答例〉
ア. 得るからである
イ. あるはずだ
ウ. 言ってよいだろう


問二「他の喜を喜ぶは天使の心」(傍線一)とあるが、「他の喜を喜ぶ」ことがなぜ「天使の心」と言えるのか、答えなさい(25字以内)。

理由説明問題。25字以内という字数から「他の喜を喜ぶことは」に続く部分に解答を限る。傍線部を含む一文が「故に」に導かれるので、直前に解答根拠があるのは自明。注意すべきは「是れ一は〜(A)。然れども亦一は〜(B)。故に〜」という形で、「故に」がBのみを承けるか、AとBの双方を承けるか、ということである。ここの文脈は「他の喜を喜ぶこと」が「他の悲を悲しむこと」に比べた場合、人の性からしてはるかに難しいということであった(①段冒頭文)。これについてAは「社会的の必要」と「社会的の訓練」からして「他の悲を悲しむ」性情が強くなるという説明である。一方Bは「性情として抑え難き嫉み」により「他の喜を喜ぶ」性情が妨げられるという説明である。
そして改めて見ると、本問は「他の喜を喜ぶこと」が「天使の心」と言える理由を問うているのだった。ならば、Bの説明のみがその根拠として採用できる。つまり、もし可能であるならば「他の喜を喜ぶこと」は「人間の抑え難い嫉妬心を/離れた高潔な態度であるから」、「天使の心」だと言えるのである。この解答において「人間の抑え難い〜離れた高潔な態度」と表現を工夫することで「天使の心」に無理なく着地させたことも重要なポイントである。

〈GV解答例〉
人間の抑え難い嫉妬心を離れた高潔な態度であるから。(25)

〈参考 S台解答例〉
嫉妬ゆえに他人の幸せを喜べないのが人心の常だから。(25)

〈参考 K塾解答例〉
人間は、性質として他者の喜びに嫉妬するものだから。(25)

〈参考 Yゼミ解答例〉
人間として抑え難い妬みを乗り越えた心の境地だから。(25)


問三「他人の悲哀に我身を打忘れて熱き涙を流す時も亦右と同じく一時の救に入れるが如き思あるなり」(傍線二)とあるが、「他人の悲哀に我身を打忘れて熱き涙を流す」ことがなぜ「救に入れるが如き思」を発生させるのか。文章全体をふまえて説明しなさい(60字以内)。

理由説明問題。「他人の悲哀に我身を打忘れて(a)/救に入れる」は「も亦右と同じく」により「一切の煩悩を打忘れて/浄楽(→浄土)に入れる」と並列の関係になり、意味的に対応している。そして「他人の悲哀に我身を打忘れて」は②段落「他人の為めに涙を流して他と我との差別を忘るる(a)」とも対応している。また同じ②段落「他の為めに泣く時は我狭隘なる、窮屈なる利己の圧束を脱して(b)」も「救」(②)につながもので「我身を打ち忘れて=煩悩を打ち忘れて(a)」と響き合う。さらに「他と我との差別を忘るる」時は「是れ我本性の光明を放つ(c)」瞬間でもある。
以上の要素を踏まえて「他人の悲哀に共鳴し自己の悲哀のように受け取ることで(a)/狭隘な利己心のへの執着から自ずと解放され(b)/本来の自己を実感できるから(c)」とまとめた。特に「狭隘な利己心への執着(=煩悩)から解放される」ことは、傍線部における仏教的な「救」に無理なく着地するといえるだろう。

〈GV解答例〉
他人の悲哀に共鳴し自己の悲哀のように受け取ることで、狭隘な利己心への執着から自ずと解放され、本来の自己を実感できるから。(60)

〈参考 S台解答例〉
狭隘な利己心を脱して他者の悲哀を共有することで、真の人間性を取り戻し、罪や煩悩を超えて清浄な心へと至ることになるから。(59)

〈参考 K塾解答例〉
人は、他者の悲しみに共感する時、利己心が取り払われ、社会的存在としての自己を実感し人間の本性を回復する喜びを覚えるから。(60)

〈参考 Yゼミ解答例〉
他人の悲哀に同情し自身もその悲哀を共有することで、自分が利己的な人間ではなく、その本性に大きな博愛心があると思えるから。(60)


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