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ISN'T LIFE STRANGE?  1976年12月、ヴェトナム帰還兵のデニスと知り合った。


学生時代、同じクラスの真沙子さんが、「授業サボろうよ」と誘って来たので、12月に初来日したBAY CITY ROLLERSが寄ったという秋葉原のサトームセンへ徒歩で向かった。途中で専修大学のトイレを借りた。
あまり記憶にないのだが、サトームセンではBCRに関する有力情報を得られなかった笑
赤坂辺りで、二人のアメリカ人男性と知り合う。
一人は、デニス23歳だった。
私は放課後、*銀座ライオン5丁目店でウエイトレスをしていて、三人は食事を楽しんでいた。
その後、デニスは仲間(御殿場のキャンプ富士 - 海兵隊所属)たちと来店。
詳しい事情は覚えていないが、ヴェトナムにヴェトナム人の妻を置いて来たらしい。
彼女の写真を見せてくれ、アグネス・ラムに似た感じの美人だった。
ある朝、寮長さんが私に「来客ですよ」と知らせて来たら、何と若い日本人男性と一緒で「彼が来たいのはここかも知れないと思って連れて来ました」と言う。
笑顔の彼の登場で私はちょっと緊張気味だった。
25日、彼と銀座の教会へ行った。
彼が讃美歌を英語で歌っていたのを思い出す。

翌年の6月に、「御殿場に来ないか」と誘われ、乃木坂にあった米軍兵やその家族が利用する「山王ホテル」の彼の部屋へ好奇心丸出しの超明るい親友キンタ嬢(沖縄出身)と一緒に招かれた。
マクドナルドでフィレオフィッシュで腹ごしらえし、誰かが運転する車に4人が乗り込み、いざ、御殿場へ。
初めて東名高速道路を通るのは、豪快でとても楽しい雰囲気だった。
キャンプ富士に着いてみると、かまぼこ型の宿舎が並び、これはちょっとショックだった。
バーへ行き、カウンターにはハーヴィーという若い男性がおり、デニスが紹介してくれた。
何を話したか記憶にないが、お喋りに夢中だった私たちのところへデニスが怒ったような表情でやって来て何か言った。
この時思ったのは、アメリカ人って焼きもち焼きなんだなぁ….笑
それから、ふたりでオニオンフライを食べた。

当時18歳だった私は、ヴェトナム戦争のことはニュースで少し聞いた程度だったが、まさか帰還兵と出会うとは….
その後、仲間とライオンに来た時は、何か憔悴しきったような表情だった。
彼は、PTSDを抱えていたと思う。
アメリカでは志願兵も多くいたが、徴兵制度があった。
何年も前に新聞の論説(みたいな)で、「多くの若者たちを戦地に送る、それが米国という国なんです」という養老孟司さんの言葉で締めくくられていた。

デニスは、美しい筆記体で丁寧に書かれた手紙を渡してくれた。
「貴女と友達になりたいです」
下の方に彼の名前は書かれてあったが、姓が思い出せない。
今もその手紙を取ってあるのだが、FBで探しようがなく、海兵隊のコミュニティをチェックしても手掛かりはない。
元気なんだろうか?ヴェトナム人の妻と幸せに暮らしているだろうか?

*現在の銀座ライオン5丁目店は、いつの頃からか('00代?)わからないが、全く違う店になっている。
かつてはホールなのでとても広かったし、今やウエイトレスがいないとはね。私は両手に小ジョッキなら10個持てた….

写真は、戦場カメラマン、故沢田教一氏がヴェトナムで撮影したピューリッツアー賞受賞作品「安全への逃避」です。










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