喪中の花の民とロマンス
「インドに行った」
と言うと、必ず
「ガンジス川入ったの?」
と聞かれるのは、まだわかる。
お店に来るお客様というかおっさんに言うと
「レイプされた?」
と何十人もが当然のように聞いてくるのには、本当に心底うんざりしたし憤慨した。
(どんな神経してんねん。)
と思うが、お客様に楽しい時間を過ごしてもらうことがホステスとしての業務なので笑って誤魔化すしかない。
インドといえば「ガンジス川」と「バスに乗車中の女性がレイプされる」これが日本人がインドに対してもつイメージなんだろう。
私はインドには2回行っているが、ガンジス川に入ったこともなければ、タージマハルを見たこともない。そもそもニューデリーには足を踏み入れてもいない(正確に言うと乗り換えで降り立ってはいるが)、性的被害ももちろんない。
2回目のインドはインド北部に位置するラダックだった。
「きっと、うまくいく」というインド映画のラストシーンがあまりにも美しく、すぐにGoogle先生に問い合わせて特定したパンゴン湖に行くためであった。
2019年の幻のゴールデンウィーク、10連休を活用して私はラダックに飛んだ。
パンゴン湖が目的だったが、他に何か面白いところはないか調べていくうちに発見したのがダー(Dha)に住むという少数民族「花の民」である。
その名の通り、花を頭に飾るという風習がある、なんともメルヘンすぎる民族なのである。
初めて写真を見たときにはAgehaを愛読していた私もびっくりの、老若男女がモリモリにお花を盛っている「盛り文化」があった。
とはいえ盛大に盛るのはお祭りの時などで、普段は少し飾る程度だそうなのだが、日本企業で普通の会社員をしている身なので残念ながら花の民の暦には合わせられない。
ラダックのダー村へは1日1本のバスか、タクシーをチャーターの二択である。
ちょうど神がかり的な暦で10連休だったこともあり、パンゴン湖へのツアーもHidden Himalayaという日本人の方がされている旅行会社にお願いしたので、日本人に囲まれていたし、パンゴン湖でも日本の方が何人かいた。
しかし、さすがにローカルバスには日本人はいない…
と思いきや、最前列に同年代ぐらいの日本の男性がいた。
もしかしてダー村へ…?運命的な恋が始まるやつ…??いやでも途中下車して違う村かも…
ロマンチストで有名な魚座の私は、
一言も喋ってもないのにドラマが勝手に始まっていた。
5時間ほどインダス川を眺めながら、落石防止ネットも何もない岩肌の側をバスは走り、ダー村へ到着した。
落石したらインダス川に落ちて確実に死ぬ
という緊張感、高速道路に落石ネットを設置している日本の素晴らしさを噛み締めてインダス川のエメラルドグリーンを眺めてると一瞬であった。
バス停もなにもないので、Google mapでチェックしていたそれらしき所で降りるつもりだったのだが、意外と降りる人が多く難なく下車することができた。
住民と思しき人について村への道を登る。
前を歩いていたお兄さんが、たわわになっている青い杏の実をブチっと取っては食べてプッとタネをだし細道を歩く。
「どうぞ」と当たり前のように、私にも差し出してくれ食べた杏は完全にカリカリ梅だった。
山肌に沿って立ち並ぶ家、幅の狭い畑。標高も高いので、きっと冬はとても厳しいのだろう。
しかし、こんな厳しい環境でも生計を立てて生きていけるのだから、朝から晩まで働く理由がわからなくなってくる。
パリコレのショーを見たり有名人のSNSを見たりして、物欲に振り回されているだけなので自業自得と言えばそうなのだけれども。
そういう世界を知らないということの方が幸せなんだろうか。
情報だけでなく電気すら入手し辛いダー村のミュージアムを名乗る建物は薄暗く、現代でも住民の方が普通に使ってそうな調理器具などが乱雑に並べられていた。
勝手に案内し始めた管理人らしきお爺さんがラダック語でなにか説明し、鍋を開けたら
いつから入っているのかわからない本物の米
が現れた。
臭いなどはなかったが、あまりの衝撃と薄汚れた感じに思わず腰を抜かしそうになったので、もしこれから訪ねる人は心の準備をしておいた方がよい。
勝手に案内してきた管理人のお爺さんに、それなりに良い値段をふっかけられ外に出ると村の方々が井戸端会議的なことをしており、
絶対村で一目置かれている長老
という雰囲気がすごいお爺さんに手招きされて輪に加わることとなった。
「まぁまぁ座りや」「君、お月様みたいなまん丸な顔してんな」「この上着、パキスタンからのや(嘘」と長老はお茶目なお喋りで非常にフレンドリーなお爺さんだった。そして、
長老は御年89歳で村の最年長らしく、まじの長老だった。
そして、気になっていたことを尋ねることにした。
散策中も何人か村の人とすれ違ったらしたのだが、誰人も花を付けていない。
現に隣に座ってる長老も、女性もつけていない。
「お花は付けないんですか?」
「最近、村の人が亡くなったから付けなてないんだよね」
「今年は寒かったから、5〜6人亡くなったんだよ」
村の人達は喪に服していたのだ。
そして命取りになる程の寒さとは一体…
盛り文化といい、喪中といい、電気も1日3時間しか通らないようなヒマラヤ山脈の麓のこんな小さな村にも自分達と同じような文化がある。
よくよく考えれば当たり前なのだが、住んでいるところや言葉や見た目が違うというだけでささいなことに驚き感動する。
この村の方々との交流には、同じバスに乗っていた例の日本人の山田さん(仮名)も実は参加していた。
(こんな、どマイナーな場所に同じタイミングで同じ年代の日本人の人がいるなんてどんな奇跡なんだ…)
ロマンチストな魚座はドキドキし始めていた。
そして、唯一村の中で機能していたゲストハウスっぽい家に山田さん共々お世話になることになった。
このYahooメールが本当に機能しているのかは怪しい。
ゲストハウスというか空いている部屋を使わせてもらう形である。山田さんと部屋分けをし、設備案内をしてもらったのだが
「飲水はこれ」
と案内されたのは、山からホースでそのまま流している
天然すぎる水
である。
売店なんてもんはダー村にはない。
ペットボトルの半分以上を飲み切っていた私は、翌朝バスに乗るまでずっとチャイを飲んで過ごす羽目になった。
そして、ダー村はとても小さい。
獣医で未婚、冬はレーに出稼ぎしているというニーマが村を案内してくれたが30分もあれば終わる規模だった。
ニーマはデリーでも働いたことがあるらしいが、都会に合わなくてこっちに戻ってきたらしい。
確かにダー村とデリーでは差が大きすぎる。
携帯の電波は届かず、インターネットも電気が通る時間だけで、その電気は19時までしかない。
夜は完全に闇になるのだ。
お母さんが作ってくれた蕪の葉のようなものが入ったカレーを食べたら本当にすることがなくなった。
山田さんと屋上にあがり、星を眺めた。
山に囲まれているせいで空は狭い。
しかし、山と山の隙間には星がぎっしりと詰め込まれており、チラチラと瞬いていた。
なぜ、こんなインドの山奥の、もはやパキスタンに近いところで見知らぬ日本人と星を見ているのか
自分で立てた計画にも関わらず「なんで自分はここにいるのだろうか」という疑問でいっぱいだった。
氷のように冷たい水で顔を洗い、
流れるのか怪しいトイレで用を済ませ
(すみません、肝心なところを忘れましたが多分流れました。)
埃っぽい布団で、未だ現実味がなく心臓が落ち着かないような感覚を抱きながら眠りに落ちた。
朝食はチャパティで、事前にブログで読んだ情報では
「お母さん手作りの杏ジャムを添えたチャパティ」
だったのだが普通の市販マーマレードジャムだった。
一応尋ねてみたところ「時期じゃないから」とのことだった。
ことごとくタイミングが合わないダー村である。
私は一日一本しかない、レーへ戻るバスへ乗るべくバス停に向かった。
ギリギリのスケジュールを組んでいたので、これを逃すと帰国が遅れ翌日からの仕事を休む羽目になるが、その連絡手段すら無いので緊張である。
山田さんはもう1泊して近隣の村へ足を伸ばすとのことで、ここでお別れだった。
他人に興味がなさそうで、見送りなんてしない人種だろうと勝手に思っていたが意外にもバスが40分遅れで到着するまでの間一緒に待っていてくれた。
今回の旅程のこと、仕事のこと、山田さんは口数は多くはなくポツポツと話をする。
ダー村の前はカルギルに行ったこと。
ゲストハウスの受付の女性がカルギル出身だったので色々情報を得られたこと。
乾燥がひどいこと。
いつもはユースキンを使っているが、持ってくるのを忘れたこと。
海外で出会う一人旅日本人男性が苦手な私だったが(特大ブーメランすぎるが、海外にいる俺感)
もはや7割ぐらい好きになっていた。
しかし、連絡先を交換することもなくバスに乗り込んだ。
バスは往路と同様岩肌スレスレの道をガタガタと走る。
途中トラックとすれ違う際に、ガンジス川に落ちかけるという「あわや」というシーンもあったがなんとか無事にレーに着くことができた。
翌朝飛行機に乗るため、私は街中のゲストハウスに宿を移した。
受付の女の子と話していると
「出身はカルギルなの」
・・・ん???
・・・カルギル・・・???
(記憶の中の山田さん「受付の女の子がカルギル出身で」)
「もしかして、ここに日本人の山田さんって泊まってる?」
「ええ!今ショートトリップに行ってるけど泊まってるわよ!」
運命だわ
そう確信し、ライナーのようになった私はカルギル出身の女の子に手紙を託し、日本に帰国した。
実は行きの飛行機では関空から中国経由でデリー着だったのだが、
中国で寝坊しデリー行きの飛行機に乗り損ね
半べそかきながらチケットを取り直す
というとんでもない失態をしていた。
帰国についても
デリー行きの航空券が取れていないことが空港で発覚し、
さらに
「クレジットカードが使えない」
「手持ちのルピーがない」
「祝日で空港の両替所が閉まっている」
「wi-fiがとんでいない」
というとんでもない悪条件が重なり、またしても半べそかく羽目になった。
なんとか日本に帰国し、家に荷物を置いて私は北新地に出勤した。
星の数ほどいるホステスでもインドから直行で出勤したホステスは、そうそういないだろう。
お店はいつもと変わらず、小綺麗な、でもちょっとうんざりした目の女の子と
スーツの男性がお酒を飲みながら時間を潰していて
「今日インドから帰ってきたんですよー」
と作り慣れた笑顔で接客する自分がおり
緑の杏の実も、インダス川のブルーも、山間を抜ける風も、強い日差しも、瞬く星空も、全てが数十時間前までそこにいたことが嘘のようだった。
しかし、しっかりと現実だったのだ。
それは体が証明していた。
全身ダニに噛まれ、私は痒くて体をかきむしり否が応でもラダックとダー村を思い出す1ヶ月を過ごすこととなった。
その間に、帰国した山田さんから連絡がきて日本でも会うことになり、色々すっ飛ばしてプロポーズしたのだが「結婚は絶対にしない」と断られ続けている。
ちなみに山田さんがポツポツと話していたのは高山病気味で頭が回っていなかったためらしく、日本では割とスピードで話ができた。
2人ともコロナで旅行に行けず、労働目的を見失い、時々生存確認をし合うという関係から特に進展はない。