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2020/02/16 引用と出典/ポール・ヴァレリー(1)

「『人は後退りするように未来へ進む』みたいな言葉、誰が言ってたのだったかな」――きっかけはそんなものだ。

有名な箴言ならすぐに分かるだろうと踏んで、ネットで検索してみる。案の定、フランスの作家ポール・ヴァレリー(Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry, 1871 - 1945)のものらしいと出た。ただし、ボートの比喩は記憶になない。ざっと検索する限りでは、「ポール・ヴァレリーの詩だ」とするばかりで出典には誰も触れていないのが気に掛かる。そもそも誰の訳かも分からない。各所で紹介されているものは、以下、本稿では(◆)と呼ぶ一節だ。(多少異同はあるようです。)

(◆)湖に浮かべたボートを漕ぐように
   人は後ろ向きに未来へ入っていく
   目に映るのは過去の風景ばかり
   明日の景色は誰も知らない

確かに分かりやすくて格好いい。紹介したくなる気持ちは分かる。だがしかし。だがしかしだ。引用するなら出典は明記されたい。個人サイトだけではなく、読売新聞「編集手帳」2006年7月2日付や沖縄タイムス「大弦小弦」2017年6月29日付(稲嶺幸弘氏の署名記事)でも紹介されているが、今日ネット上で内容を確認できた後者でも出典は書かれてはいない。

これまでにもこの言葉の出典を知りたいと思った人はいて、Yahoo!知恵袋で尋ねる人や自分のブログで記事にしている人に辿り着く。そこから分かったことは、以下の2点。

①ヴァレリー「精神の政治学」(『ヴァリエテ Ⅲ』所収)に「我々は後ずさりしながらに未来へ入っていく」という表現が出てくる。
②ネットで多く紹介される上記(◆)の一節の出典は分からない。

上記ブログ(筆者:おかだ外郎さん)によると、『ヴァレリー全集 11』(筑摩書房)に繰り返し①に相当する表現が登場するが、(◆)を含む詩は見つけられなかったとのこと。

そこで試しに吉田健一訳『精神の政治学』(中公文庫)を繰ってみる。

本書には、表題作の他に4篇と訳者吉田健一によるエッセイ、四方田犬彦氏の解説が収録されている。
今日読んだのは表題作のみ。これは1932年に行われた講演録だ。

その中で、ヴァレリーは「過去と未来」について以下のように述べる。

序でながら、ここで一言、(それが決して新しいものではないことは事実であるが)人間が発明したものの中でも刮目に値するある発明について、述べさせてもらいたい。それは外でもない、過去未来との発明についてである。これ等は決して自然的な概念ではない、というのは、原始人はちょうど獣と同じように、その瞬間瞬間にしかいきてはいないのであって、人間は原始状態に近ければ近いほど、それだけ過去や未来を意識することも少くなるのである。
――――ポール・ヴァレリー『精神の政治学』中公文庫 p34

終盤に①で示した「我々は後ずさりしながらに未来へ入っていく」に該当する表現が出てくる。その箇所は以下の通り。

何時だったか、私が人間の未来というものをどう考えているか、また世界が五十年後にはどうなっていると思うか、聞きに来た人があった。私が返事に困っていると、その人は要求を減じて、「二十年後にはどうなっているでしょうか」と聞いた。私は、その時、「我々は未来に後退りして進んでいく」と答えた。
――――ポール・ヴァレリー『精神の政治学』中公文庫 p65

なお、ヴァレリー/恒川邦夫訳『精神の危機 他十五篇』(岩波文庫)所収「「精神」の政策」において、同箇所は以下のように訳されている。

しばらく前に、私のところに人がやってきて、生活がどうなるか、半世紀後の生活がどうかるか、私の意見を聞きたいと言った。私が肩をすくめたので、質問者は質問の射程を小さくし、言わば値下げして、私に問うた。「二十年後は、どうでしょうか?」私は彼に答えた。「我々は後ずさりしながら未来に入っていくのです……」、と。
――ポール・ヴァレリー『精神の危機 他十五篇』岩波文庫 p156

続いて、鈴木信太郎訳『ヴァレリー詩集』(岩波文庫)にあたる。

見つからない。ヴァレリーが発表した詩は100点に満たないと言われているので、岩波文庫版になければかなりの確率で「ない」のではないか。読めば分かることだが、鈴木信太郎の訳は美文的なものが多く、(◆)のごとき表現は出てきようがないと思われる。また、(◆)の内容に相当する詩句も見つけることはできなかった。

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本当は別のことをするつもりだったのに、一日ヴァレリーの言葉探しで終わってしまった。図書館で『ヴァレリー全集』を予約したので、それらにあたってみるつもり。進捗状況などは、またいずれ別稿で。

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クボタエリナ
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