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2020/01/17 あれから25年

1995年1月17日早朝5時46分。それまで経験がない激しさの地震で目が覚めた。のちに「阪神淡路大震災」と呼ばれることになった大地震だ。
毎年この日には必ず朝礼(ホームルーム)や授業でこの震災のことを話すようにしている。自分の体験や、その後に見聞きした人の言葉など、つないでゆかねばならないことがあると思うからだ。そう考えるようになったきっかけは、2011年3月11日の東日本大震災だが、それについては別稿に譲る。 

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今年は朝日新聞が「25年前、もしもスマホがあったら 1.17を追体験」というページを公開している。これが凄い。当時スマホがあったらという仮定の下に、実際にあったことを時系列に追いかけられるようにしている。追体験というのも知ることの一つで、よくできていると思った。

以下は、わたしの身の回りのことの記録。

1995年1月17日早朝5時46分直後。あまりの揺れに驚いて、ベッドから出られず布団の中で天井を見ていた。自分の近くにはハンガーラック、洋服箪笥、本棚があったけれど、幸いどれも倒れていないし、倒れてきても自分には当たらないのは確認した。それでも、ぼんやりとこのまま家が崩れて死ぬのかなとぼんやりと思った覚えがある。

少し間があってから、隣の部屋にいる妹とわたしのところへ様子を見にきてくれた。家族も犬も我が家は無事だった。そこで停電していることを知る。母は携帯ラジオを出してきてた。そのラジオは、青い円筒型で胴にはテニスラケットを持ったスヌーピーの絵が描いてあるもので、ずっとパソコン部屋の本棚に置いてあった。NHKに合わせると、自分たちの住まい一帯だけでなく広い範囲で地震が起きて、大きな被害が出ているらしいということしか分からなかった。暗いけれど、目が慣れてきて様子が見える。小さなラジオを母とふたりでしばらく見つめていた。

幸い我が家には石油ストーブがあったので、電気とガスが止まっていても暖を取ることができた。水道は止まっていなかった。(ただし、水道管の破裂はあったようで、地震当日は自宅脇の道路から水が噴き上がっていた。すぐに手当てが行われて解消したけれど。)だから、お湯を沸かしたり、食べ物を温めたりすることもできた。夜が明けてからは、居間にいた。父の記憶がないので、無理をして会社に行ったのかもしれない。この日は火曜日で平日だったけれど、学校へは行かなかった。学校から休校の連絡があったか否かは憶えていない。

昼頃になって電気が復旧した。そこでテレビを点けたときに、自分が想像していたよりもはるかに深刻な事態が起きていることを知った。神戸の街が崩れた様子、長田の火事。人も街も、あらゆる物事が動転している感じがした。

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当時はすでにプッシュ式で電気が必要な電話を置いていたけれど、幸いダイアル式の緑の電話も家に保管してあり、電話回線が無事だったため、親戚のところに無事を伝えることができた。電気がなくても通じる電話のありがたさが身にしみて、我が家はその後もこの緑の電話を大事にとっておいた。

高校の授業は比較的早い段階で再開されて、まったくの元通りとはいかないまでも緩やかに日常が戻り始めたように見えた。
しかし、自宅のガスは止まったままで母はカセットコンロと石油ストーブで煮炊きをし、お風呂は数日に一回、車に乗って大阪方面の大きな銭湯へ家族で出かけていた。(ガスが復旧したのは、最初の揺れから1か月以上経ってからだった。)周りの人たちもそれぞれに不便な暮らしをしていた。わたしが通っていた高校は兵庫の県立高校だったので、西宮や神戸方面から通う先生がかなりいらした。ある先生は、西宮から自転車で通勤し、帰宅時にはポリタンクに水を汲んで帰宅していた。学校の階段の壁にに生活基盤が整わないのに平常通りに仕事が再開されていることを糾弾する貼紙が掲示されていたのを見たこともある。授業の中で、教え子が地震のために亡くなったと話す先生もいた。高3の先輩たちは、センター試験の直後の震災のために、私大入試も含めて混乱した中で、入試本番を迎えた。水泳部の先輩が予備校でぼやいているのを思い出す。身近な人でで亡くなった人はいなかったし、家を失った人もいなかったから、暢気な回想ができるところもある。それでも、それぞれの人が、それぞれにやるせない思いを抱えていたことは知っている。

日常は取り戻そうとしないと戻りにくいものだけれど、誰しもが即座に動けるわけではない。高校生とはいえぼんやりした子供だったわたしでも見えること、分かることはあった。でも、見えていないこと、分かっていないことのほうが圧倒的に多かったと思う。今、両親や学校の先生たちの年齢に近づいて、ようやく彼らがわたし達の日常のためにいかに心を砕いてくれていたかが分かるようになってきた。自分に近いところでは目に見えて酷い被害がなかったこともあるけれど、当時のことを思い出そうとしても、不便だったり、嫌な思いをしたりしたことがほとんど思い浮かばない。これは、単に昔の実感が薄れたからということではなく、両親や周りの大人が自分たちを庇護していてくれたからなのだ。

当時母から聞いてから忘れられない話がある。

当時母はある銀行でパートタイムで勤めていた。同僚の多くが被災したけれど、銀行も地震があったからこそ大変だったそうだ。母が親しくしていた先輩パートタイムのHさんは三宮で被災し家が全壊した。家が壊れても家財を守らねばならず、その場を離れられなかったときに、安否の確認のために翌日にはお見舞いの品を持って課長さんが訪ねてきてくれた。そのことにHさんは感激したという。それは、電車が全線不通になっている中、代替輸送のバスを降りた後もさらに長く歩かねば来られないところへわざわざ励ましに来ることがどれほど大変なことか分かるからだ。

また、震災から15年経った2010年1月17日、朝のニュースで流れたインタビューもも忘れられない。

その日のブログには、次のように書いた。毎年1月17日は巡ってくるし、人それぞれにその人の過ごしてきた時間があるから、人の数だけ言葉がある。その中で、わたしが上記の二人の人の言葉が忘れられないのは、震災とは別のことだが、自分の体験と重なるところがあるからだ。

きりのいい数字を見ると、ついつい「節目」のことばを使ってしまう。でも、節目を迎えたからといって、悲しい体験が消えることはない。嬉しい体験がいつまでも消えないのと同じように。
http://hibinoao.blog59.fc2.com/blog-entry-1409.html

阪神淡路大震災のあと、この25年に限っても日本各地で数多くの災害が起きている。規模も被害の内容も様々だ。それらによって、大事なものをなくしたり、傷ついたりした人たちがいる。当時「そこ」にはいた人もそうでない人も、出来事や思いを知って共有することで紡ぐことのできるものがあると思う。忘れないために話すことも必要だ。そう思う気持ちは変わらないと思うので、また折に触れてあの震災の話をするのだ。




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クボタエリナ
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