佐藤セシリア久子さん一代記
波瀾万丈。
一言で表せばそういうことになる。
決して有名人ではない。
しかし、この人の人生は、書き残しておく
価値がある。
いや、是非とも書き残しておきたい。
そんな思いで筆をとってみたい。
今年で84歳。
それにしては陽気で、
ハキハキと良くおしゃべりし、
全くもって歳を感じさせない。
「久子」という名前よりも、
「セシリア」の名前を使うことが多い。
ご近所では「セシちゃん」で通っている
彼女の周りは、いつも笑いが絶えない。
根っこが明るくて、楽天的。
「人生楽しんだもの勝ち」
という考え方で、筋が通っているのだ。
生まれは東京。
新聞記者の父を持つ家庭に生を享けた。
父の仕事の関係で、幼くして台湾へ。
7歳まで高雄で過ごし、そこで終戦を迎える。
お手伝いさんのいる裕福な暮らしが、
一転して貧しく苦しいものに変わった。
台湾から米国の引き揚げ船に乗って
日本に戻り、
親戚の伝手を頼って新潟県の直江津へ。
居候暮らしが気まずかったのだろう。
彼女が中学2年生の頃に、
一家揃ってブラジルへ移民として渡る
ことになった。
当時、政府が積極的にブラジル移民を
斡旋しており、
夢と希望をそこに見い出したのだ。
船に揺られて45日間かけての片道切符である。
ブラジルで暮らすには、英語が必要。
そう聞いて、懸命に英語を勉強していた。
しかし、船旅の途中で同船者が教えてくれた。
ブラジルの公用語は、ポルトガル語である。
慌てて船内でポルトガル語の勉強を始める
という、ドタバタ喜劇のような展開。
農業移民として、サンパウロへ入植。
一家はコーヒー農園に雇われた。
まだポルトガル語がろくに話せない
状況にあって、
彼女は2年間のホームステイを選択する。
親元を離れ、簡単に帰って来れない
郊外で学ぶ。
ポルトガル語習得のために退路を断ったのだ。
親は、移民コミュニティの中で、
日本語中心のまま何とかやっていける
という算段。
しかし、自分がこれからブラジルで
生きて行く上では、ポルトガル語を
身に付けるのは必須と悟っていた。
更にその後は、既に中学生の年齢だった
にも関わらず、現地の小学校に編入して、
体の大きな小学生となる。
「生きるために必死」
そうやって現地における
コミュニケーションツールを着実に習得し、
親元のサンパウロへと戻った。
そろそろ仕事に就こう、
と思い始めた17歳のとき。
サンパウロ新聞に掲載された、
トヨタ現地法人の社長秘書の求人を発見。
それが運命の出会いとなる。
無事採用にこぎつけた彼女は、
その後30年もの長きにわたり
奉職することとなる。
肩書は秘書だが、
実質的には通訳の仕事が多かった。
トヨタ現地法人の社長は、
みな日本からの出向者。
英語は話せても、ポルトガル語はできない。
だから、社長がどこへ行くにも常に同伴。
出張の度に、飛行機はファーストクラス、
ホテルは5つ星。
お陰で、サービスレベルの良し悪しに対する
目が肥えた。
操れる外国語の数が増えると、
給与が上がる仕組みだった。
そんな理由から、ポルトガル語以外に加えて
スペイン語とフランス語もマスターし、
日本語と英語を含めて5か国語を
操れるまでに。
「お給料が上がると思えば頑張れた」
意外と単純な動機である。
お給料は悪くない。
ボーイフレンドにも事欠かない。
社長に付いてあちこち贅沢な旅行も
できていた。
そんな彼女に、会社がらみで
お見合い話が舞い込む。
当時、イタリア人含め数人(!)と
お付き合いがあったそうだが、
サンパウロで当時大人気だった、
高嶺の花の中華料理店に連れて行って
くれるならお見合いしてもいいわよ、
と返答。
社長から「随分と高くつくな~」と
嫌味を言われたらしい。
そのお見合いで出会った、
佐藤さんと結婚することになる。
彼は、シンポ工業*という
京都のメーカーのエンジニア。
既に鬼籍に入られているご主人のことを、
「どんな人でしたか?」と尋ねると、
優しい、愛おしい眼差しで、
「ゴンジ」(山梨の方言で「意固地」
「頑固」を意味する)
だったのよー、と表現されていた。
*今は日本電産グループ入りし
「日本電産シンポ」となっている。
「キング・カズ」の愛称で親しまれる、
サッカーの三浦知良選手。
彼が若い頃、ブラジルで武者修行していた
のは有名な話だ。
父親がサンパウロでレストランを経営
しており、セシリアさんは飲み屋で
たまたま知り合いになる。
「今度息子がサッカー留学に来るんだ」
「よかったじゃない」
「いや、面倒見なきゃいけないから
大変なんだよ」
当時、カズの父親は、カズの母親とは
離婚しており、単身サンパウロへと
渡ってきていた。
サンパウロへやってきてすぐ、
パーティーで同席した。
日本食が恋しくなったカズが、
近場で日本そばを食べたことを知った父親が、
「そんなんじゃダメだ、帰れ!」と一喝。
筋肉になるたんぱく質、要は肉を食え
ということ。
そして何より、今からホームシックに
なっているようでは、ブラジルでは
やっていけないぞ、という愛のムチ。
いきなりしょげるカズ。
いくら何でも、まだ幼いのだから
かわいそうだと感じた
彼女は、自分なりにカズを慰めた。
何かと大変な異国暮らし、
母親代わりとまではいかないが、
精神的に少しでも支えてあげようと思った。
頼ってきたときは、
いつでも話を聞いてあげた。
そんな関係は、カズがブラジルから
日本へと凱旋帰国するまで続いた。
帰国の便で出会ったりさ子さんを
見初めて結婚した、その披露宴にも
お呼ばれしている。
その後、ご主人が55歳でシンポ工業を定年。
かねてから定年後は日本に帰りたがっており、
ついに帰国。
帰国当初は、東京の目黒で3年過ごした。
その後、八王子に居を移して4年。
そして、ご主人がかねてより
帰りたがっていた故郷、
山梨県の大月へと戻る。
彼の実家から至近の場所で、
良い売り物が出たのだった。
大月に定着して、早や30年が経つ。
ブラジルにいた頃、
NHKの取材を受けたことがあり、
記者から
「日本に戻ってきたら教えてくださいね!」
と言われていた。
目黒に住んでいた頃に、
そうだと思いだして連絡。
すると、
「では取材に行きます!」とのことで、
本当にカメラクルーを連れてやってきた。
駅から家に行く道すがら、早速撮影開始。
NHKで実際に全国に放送され、
あちこちの友人から観たよと連絡をもらって、
反響の大きさに驚いた。
しかし、親戚には一切知らせていなかった
ので、多分みんな観ていないし、
知らないと思うわよ、
そうカラカラと笑う。
帰国後も、トヨタ関係を中心に
仕事が絶えない。
ポルトガル語の通訳、翻訳が主な仕事。
サッカーの神様・ジーコの通訳を
務めたこともある。
ご自身が病気で入院していたときに、
その病院にブラジル人の妊婦が
やってきたことがある。
看護婦さんが突然病室を訪ねてくるなり、
誰も言葉が分からないから
通訳をしてくれないか?と頼まれた。
困っている人は放っておけない性質。
分娩室で、医者と妊婦の間で
「息んでください!」と通訳。
訳だけでは伝わらず、自分も息むことに。
「んーーーーー!」と実演し、
「んーーーーー!」と妊婦が頑張る。
「自分は出産経験がないが、あれは疲れた」
「帰ってグッタリ倒れ込んだわよー」
病人とは思えない活躍ぶりである。
ブラジルが恋しい。
日本ももちろん好きだが、
気候には未だになじめない。
夏の暑いのは全然平気、
しかし冬の寒さが堪える。
ブラジルの炎天下で生活するうちに、
体がその気候に
なじんでしまっている。
どんなに暑くても、クーラーなしで大丈夫。
アッパッパ(ムームーのような
簡易のワンピース)を着て過ごすのよ、
と朗らかに笑う。
ブラジルの家族とは毎日のように
電話で話をしている。
持病の兼ね合いで、
飛行機に乗ることがかなわず、
そうこうしているうちにコロナ禍となり、
ブラジルの家族が来日することも難しい。
それでも、今いる場所、あるいは
行った場所で、そこにいる人と
いつの間にか打ち解ける。
常に自然体。
周りがいつの間にか元気になっている。
明るく朗らかな人柄。
「ブラジル人気質」に染まっている
ということだろうか。
ちっぽけなことで悩んでないで、
もっと人生を楽しみなさい♪
そんなメッセージを、触れ合う人みんなに
おすそ分けしてくれる。
そして、それがちっとも
押しつけがましくない。
いつまでもお元気でいて欲しいものだ。
「人生100年時代」だから、
少なくともあと16年、
あわよくばもっと長く。
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何人かの友人が、「100人組手」と称して、
積極的に新しい知り合いと1対1のお話を
する機会を設け、ご縁を紡いでいる。
何度かそのお相手を務めさせてもらったが、
自分自身の思考の範囲を広げる上で
大いに役立つことを、身を以て実感している。
今回、セシリアさんとお話しできたことで、
この「組手」の効果効能を
より一層強く実感した次第だ。
こんなにも面白い人生譚を聞くことが
できたことを、折角だから何らかの形で
世の中に還元したい。
そんな心持ちである。