強いて勉めるか、問うて学ぶか
「勉強しなさい!」
親からそう言われた記憶が、
幸いなことにない。
いや、言われたことがあったの
かもしれないが、本当に覚えが
ないのだ。
ドラえもんによく出て来る場面
の一つに、のび太のお母さんが
「もう宿題は済んだの?」
「勉強はやったの?」
などと尋ね、してないと分かるや
「のーびーたーーー!!!」
と激ギレするところがある。
こんな風にのび太に接しても、
自ら宿題をやるようになるはず
もない。
人に何かを強制したところで、
長続きするのが難しいのは、
誰でも分かりそうなもの。
それなのに、「勉強しなさい」
という親が後を絶たないのは、
やはり自分に刷り込まれた
「パターン」を無意識のうちに
繰り返しているからだろう。
今通っている、EMSという名の
オンラインスクールを創った
西條剛央さんが、興味深いことを
教えてくれた。
「勉強」の語を分解すると
「強いて勉める」となり、
「学問」の語を分解すると
「問うて学ぶ」となる。
後者の方が自主的だから断然身に
付くし、断然面白い。
言葉尻は異なるが、そんなような
意味合いのことである。
正にその通りなのである。
「強いて」、半ば無理やりやった
ところで、自主性がない学びは
定着しない、したとしても著しく
歩留まりが悪い。
しかし、自ら「問うて」いくと
いうことは、そもそも好奇心や
興味があってのことである。
問いを立てることをするならば、
必ずや深い、有意義な学びが
待っているはずだ。
赤ちゃんは、見るもの聞くもの
全てが新鮮で、それはそれは
好奇心のかたまりだというのは
誰でも見れば分かる。
人間の本質は、まさにそこに
あるのではないか。
人は生来、アクティブに、何事も
吸収したいという欲求のかたまり
であるはずだ。
それが、大人になるに従って、
だんだんと丸くなり、目の中に
あったキラキラする輝きが弱く
なっていく。
平凡な人生を送りたい。
別に向上心なんかない。
今のままで十分。
そんな人もいるかもしれない。
しかし、今回のコロナ禍のような
危機が突如として襲ってくること
だってあるわけで、やはり常に
学びを更新し続けることが必要
なのは疑いのないところ。
そんな状況で、必要だと思う学び
を「強いて勉める」ように、
それこそ苦しい思いをしながら、
能率の上がらないままやり続ける
のか。
それとも、自ら「問うて学ぶ」
ように、興味関心の赴くところを
深掘りし、血の通った学び、地に
足の着いた学びを志すのか。
私より一回り程も若い優秀な友人
が、今日教えてくれた言葉、造語
が興味深い。
「問いストーリー」
である。
ディズニー映画に引っ掛けた冗句
にもなっていて記憶に粘りつく。
自ら問いを立て、それを物語化
していくことで、豊かな学びへと
昇華していく。
そんな意味を感じさせる。
いつまでも、キラキラと目を輝か
せて、自ら問いを立てて学ぶ人で
ありたい。あり続けたい。
そう、決意を新たにした。