真綿のようになんの役にも立たない優しさをどうも
ライセンスサーバが応答しない。
ping飛ばしても応答がない。
すっと血の気が下がる。
ライセンスサーバが自分の管理下にあればこんなに心理的な負担にはならないだろう。あるいはせめて自分の身近にあれば。
これがないと成り立たない重要な仕事道具が自分のまったく知らない手の届かないところでシャットダウンするという危うい状態を再認識した。
ふと中島みゆきの歌詞を思い出す。
「お前が泣いて喜ぶ者にお前のオールを任せるな」
別に私が泣いても誰も喜ばないだろうけれど、自分のオールは自分で持つことは大切だ。オールを手放していると痛切に感じる。
自分の感情を揺さぶられるのが嫌なのであえて連絡を取らなかったのだけれど仕方がない、しぶしぶ、育児休業から復帰した旨の挨拶メールを作成してBCC送信した。
続々と返ってくる返信の言葉は、みんな優しい。
ついでに頼んだ遠くにあるライセンスサーバの状況把握にも表面上は好意的な返信が返ってくる。
そうそうこれこれ。
みんな私にはメールの言葉は優しいのだ。
リアルに会えばもちろん態度も優しい。
でもそれだけだ。誰も彼も、具体的になにかの役に立つわけじゃない。
ライセンスサーバはシャットダウンしたままだし、一時的に息を吹き返しても、私にはその後の処置をする権限はない。一時的に親切にしてもらっても、特になにも変わらない。
いつだってそうだ。
母親業と会社員の二足の草鞋に疲弊しても。
「いまは仕事はそこそこで、小さな子どもとの時間を大切にしてください」
なんて優しい言葉をかけられる。
まったりしていて、いい会社だと思う。
でもその言葉で今日の私の作業が進むわけじゃないし、これから面白い仕事体験ができるわけじゃない。むしろ仕事の楽しさを遠ざける。
その言葉で今日の夕飯ができあがるわけじゃないし、気難しい長女がパクパク食べるわけじゃない。誰もお風呂も寝かしつけも夜中に起きるのもちょっとした風邪がうつるのも代わってくれない。
「疲れたら休めば」とも言われる。でも有給休暇の日数はわけてもらえない。冬のインフルエンザ流行期にあっという間になくなる有給休暇をきっとその人は知らない。
ときどき、狭い窓から遠くを見る。
そこにはない、見えないどころかありもしないランドマークを探している。
優しい言葉は私をどこにも連れて行かない。
日常に溶けていく時間と体力の中で、それでも本当はなにかを掬い上げないといけないんじゃないかな。
真綿のようになんの役にも立たない優しさをどうも。
流れてきて手に触れた木の棒とか藁とか、なにかがそのうちオールになるといい。どうせ誰もなにもくれないから、私がやるべきことは水の中に手を突っ込むことくらいだ。