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デフォルトの豆腐

昭和世代の私の家には、よくお豆腐屋さんがラッパを鳴らしながら、自転車で豆腐を売りに来たものだ。♪パ~フ~というラッパの音が聞こえてくると子供の私はいつも、アルミの鍋かボウルをもたされて、表へ買いに行かされたものだ。

「もめん一丁」。そう言って豆腐屋のおじさんに鍋を手渡すと、後ろの荷台に木箱を積んだ自転車のスタンドを重そうにガシャンと立てると、木箱の蓋を開けて、水の中でゆらゆらしている白い豆腐を手ですくって鍋の中に入れてくれた。私はそれを玄関の中へと持ち帰りながら、ちょっと憂鬱な気分だった。なぜなら、子供のころの私は豆腐が嫌いだったのだ。

こんなに噛み応えがなくて、薄味な豆腐というものを、大人はどうしてそんなに好んで毎日食べるのか、さっぱりわからなかった。夕飯が「湯どうふ」なんて日はもう最悪だ。何が悲しゅうて、育ち盛りの子供がひたすら豆腐ばっかり食べなくてはならないのか。だいいち、豆腐がご飯のおかずになるものか。肉を出せ肉を。うがー!!

……という心境だった。

そんな私はそれ以降、豆腐というものにほとんど興味を持たず、あまり食べないまま大人になってしまった。その後、私は結婚をして、長年暮らした関西のある地方都市から、首都圏に近い都市へ引っ越した。聞けば夫も豆腐が大好きだという。酒の肴は豆腐に限る。とか。また豆腐か。内心私はそう思った。

豆腐好きな夫は、引っ越してきたばかりでまだ土地勘のない私に代わって、スーパーでお気に入りの豆腐を自ら選んで買ってきた。木綿豆腐も冷ややっこにするとおいしいんだよー。君も食べてみなよ。というので、仕方なくお義理で冷ややっこをひと口、口に運んでみたところ、私の中に衝撃がはしった。

え。豆腐って、こんなに味のあるものなの? こんなにおいしかったの!?

その豆腐はちょっと固めで、しっかりと大豆の味がして、濃厚な感じがしておいしかった。

そうか、豆腐は関西よりも関東のほうがおいしいんだ。私は勝手にそう思い込んだ。もちろんそれは事実ではない。

本当の真実は、それから何年も経ってから、夫と一緒に関西の私のおばさんの家に遊びに行ったときに判明した。

叔母さん夫婦は私たち夫婦に手作りのごちそうを出してくれて、その中にはおじさん特製の豆腐のサラダもあった。あれ、このお豆腐もおいしいな。やはり時代は変わって、関西の豆腐も関東のおいしい豆腐をみならうようになったんだなあ。またしても私は勝手にそう思い込もうとしていた。そのとき、おばさんが言った。

「そういえば昔、自転車で売りに来たお豆腐屋さんの豆腐って、まずかったよねえ」

おじさんも言った。
「水で薄めたような味だったよねえ」

ーーまたしても私の心に衝撃がはしった。え、あれはまずい豆腐だったの!?
子供のころの私は、あの豆腐をデフォルトとして脳に記憶してしまっていた。まずい豆腐をデフォルト設定していたということは、私の豆腐に対する概念は、最初から完全に間違っていたことになる。

しかし、それも仕方がないことだった。思い返せば子供のころ私が住んでいた家は駅から離れた住宅地で、いちばん近いスーパーが1.5キロ先だった。コンビニなどはまだない時代、豆腐はあのお豆腐屋さんから買うのがいちばん手っ取り早かったのだ。それに昔のことだから、いつも来てくれる豆腐屋さんに対して、今日はスーパーで買ったから要らない、というわけにはいかない、という義理人情も絡んでいたのだろう。というわけで、私には豆腐選択の自由がなかったのである。

今の私は、おいしい豆腐を食べている。スーパーにずらりと並べられたたくさんの豆腐の中から、好みのものを選ぶ。今は種類がありすぎて、選ぶのに困ってしまうくらいだ。豆腐を自分で選択できる自由。私は今それを満喫している。

追記。しかし私はあの豆腐屋さんを責める気にはなれない。きっとあのお豆腐屋さんは戦後の物がない時代から営業をしていて、乏しい原料で豆腐を作る方法をさんざん苦労して編み出した末に各家庭に届けてくれていて、戦後がすっかり遠くなっても、その営業スタイルを貫いていたのだと思う。もちろんこれも私の想像&思い込みであるが、これはきっとそうである気がする。

#自分で選んでよかったこと

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