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僕らは一度「アート」を捨てたんだ

リア充、非リア充。
高校生の自分はこんな言葉の影響下にいた。

みんな違ってみんな良いなんて嘘。
大きな声を出す子が一軍で、そうじゃない子は2軍。
そんな決められた評価軸で自分は踠いていた。


主観的に見る自分自身を「普遍」とする。
「普遍」と見る自分にも関わらず、特定の集団に属する以上は規範や経済と呼ばれる「普通」に合わせなければいけない。

本来「普遍」であったはずの人間は、「普通」の存在を知った途端、後戻りができなくなった。
「お前は身勝手だ、現実を見ろ」
誰かからそう言われるのでは無いかと恐れている。私もそう。


マナー 均質 マナー 

これらは私の頭を少なくとも朝9時から18時まで支配している。
仕事というやつだ。


僕らは一度「アート」を捨てたんだ


自分の幼少期を振り返ってみる。
5歳の私は、A5サイズのメモ用紙に少年活劇の小説「トータスの冒険」
(少年トータスがトロッコに乗って未知の世界を旅する傑作)をミミズのような字で綴っていた。

トータスは、トータス松本が由来なのかと思ったら全く違う。
当時はウルフルズなんて知らない、全くの奇遇だった。

しかし、当時の自分は決して「トータスの冒険」が突飛な制作活動だとは思っていなかった。誰からの評価も期待しない。ただ書いた。

多かれ少なかれこのような創作は、誰しも通過したはずだ。
これこそ、私たちが遠い過去に貫いた、自分自身の為の「普遍」。
創作の時間が、自分を自分たらしめる。

快楽や優位性を求めるために大人は稼ぐが、子供は純粋無垢な「普遍」を追い求める。


・「普通」に染まる自分を見て、社会に馴染めた喜びを感じる。
・「普通」に染まる自分を見て、僕は誰なのかと気づく。

仕事が辛くなってきた。
なんでも良いから、かつて捨てた「アート」を拾ってみようかな。


・大人になっても「普遍」を大切に貫き続けたあなたはとてもレア。あなた自身もこれに誇りを持っている。
・「普遍」を貫いて、あなたは普遍を持ち続けた同志の少なさに気づく。寂しい。そして、強く感じるんだ。同志で溢れかえる「普通」の世界への誘いに。

あなたは本当に自由なの?


葛藤と彷徨いの連鎖。
普遍と普通の谷間を彷徨う。

私がこうして取り止めのない文章を書いているのは、自分自身の「普遍」を取り戻すためなのかもしれない。

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