Switch←♡→Witch Enter1, -破れない殻-
天国、地獄、人間界。それら総てに光と闇が入り混じっている。それは
天ノ世(アマノヨ)、地の匣(ジノゴウ)、凡楽園(ボンラクエン)でも同じこと。
禁忌を破り凡楽園に身を潜める【尊愛 染慈(ミコトメ センジ)】。
自分が何者なのか、人間ではないという確かな違和感に悩みながら過ごす【破坩 鬨鳴(ワルツボ トキメ)】。
男子生徒が心に抱えるものを引き金に、彼女たちの運命が美しく愛(かな)しく踊りはじめる。
さぁ、彼が心に持つのはどっちのスイッチ?
「悪い!掃除当番代わってくんない?」 「課題写させて!」
「「それ、鵜等に頼めばいいじゃん」」
内心ではやりたくないと思っていても、鵜等灰(ウトウ ハイ)は二つ返事で引き受けてしまう「NO」が言えない人間だった。
「YES」と言った以上やりきってしまう性分もあり、クラスでは “便利屋ウトウ”と体よく使われている。
今日もいくつかの雑用を済ませ、彼は自分のタスクを完了するために図書室へ向かっていた。
「今日は見つかるかな」
小学校から図書委員を続けている彼には日課がある。
ー書物の整理と1日1冊、本を読むことー
高校に上がり校舎が大きくなっても図書室は相変わらず小さいまま、もともと大きい町ではなく合併しても人口はさほど増えるわけでもなかった。街は学業やスポーツで再建しようと力を入れていて、文化に対する意識が薄くなった結果『本を置くスペース』が限りなく狭い。
故に、1日1冊読んでも卒業までには図書室の本全てを読み切れてしまうのだ。
鵜等は昔から本が好きでジャンルを問わず読み漁っていた。両親は共働きで家を空けることの多い家庭だが、祖父母の家でお留守番できるので何も悲しいことはなく、むしろその時間が大好きだった。
口数の多くない子供だった鵜等を気の毒に思ってか、祖父は必ず
「今日は何するか?」と声をかけてくれ
「……おさんぽ」と答えると、
「あいよぉ」と、裏の畑や将棋仲間が集う公民館に連れだしてくれた。
中でもとびきり好きだったのは、祖母の通院の日だ。週に一回検診のため隣町の病院へ行く。祖母が診察している間は待ち時間が長いからと、祖父が近くの大きな図書館へ行ってくれるのだ。
透明なガラスの扉をゆっくり押し開くといつも冷房の効いた肌寒い空気に、体が後ろへ押し戻される。自動ドアがひらくと、高く密集した本棚にはびっしりと鮮やかな背表紙が揃っていて、紙とインクの匂い、ページの擦れる音、コトンと机に本があたる音、時折挟まるぱたん と本をとじる音。
この空間すべてが幼い鵜等にとってのなにより大事な時間だった。
小学校に入学するころ。ランドセルには喜ばなかったが、本の読みすぎでメガネをかけるよう言われると、快適な読書時間が戻った!と静かにはしゃぐような子供だった。
読書ライフは週一回の公共図書館に加えて学校の図書室、二週間に一度近隣の学校を周る移動図書館が来て本の貸出や寄付のお願いをしに来るという、鵜等にとっての天国が待っていた。
「あら、灰くん。こんにちは」
「……こんにちは。あの、きょうはこれを借ります」
「これで30冊目だね!本を読むのが大好きなんだねぇ」
「うん。本読むのがたのしい、から…好き!」
「そっかぁ!今まで読んだ本で、一番のお気に入りはあるの?」
「うん!おうちにあって、まっしろな絵本なの!」
「へぇ!どんなお話?」
「悪いお兄さんを、きれいな女の人がやっつけるはなし!」
「ワッハッハ!それはとっても面白そうな絵本だねぇ!」
「ぼく、その絵本が大好きなんだ!」
確か、見つけたのは大掃除の時が最初だった。
『弟を貶めた兄が沢山の犠牲を出してやりたい放題。恋の相手をも思い通りにしようとして、復讐されてしまう。』
ストーリーは大まかに説明するとこんな内容だった。気がする……
曖昧になってしまうのは、ある日突然その本がなくなってしまったからだ。
鵜等にとってその絵本は特別だった。
いろんな本を読んだ後、ふとその絵本が読みたくなって読む。色んな話に出会っても、物語を思い出したくなって絵本を読む。
知らない間にルーティン化されていたから、移動図書館のおばさんと約束したあの日も発作的に読みたくなった。
だが家に帰り部屋中探しても絵本は見つからない。父と母に聞いても
「真っ白な絵本?そんなものあったか?」
「僕、本棚にずっとしまってたんだけど……」
「昨日おばあちゃんと部屋のお掃除したけど無かったわよ。別のところに片付けたんでしょう?」
「違うよ!絶対しまってあったもん!!」
一日中泣いて一緒に探してもらったのに、結局絵本は出てこなかった。
後日。祖母にも話すと衝撃の事実とさらなる悲しみが待っていた。
「僕ね、移動図書館のおばさんと約束してるんだ。今度きた時に、その絵本をみせてあげるって……ばぁば、知らない?」
「真っ白な絵本かい?あたしゃ見とらんけんが……そういえばあったかもしらんなぁ」
「えっ!?どこにあったの!」
「この間そこの公園ではるよさんとあってねぇ」
「そんな話いいから!絵本は!!!」
「あぁ…!えっとねぇ……」
近所の友人と会い、その人がボランティアで本を寄付しているらしく協力を頼まれたらしい。母と二人で、掃除がてら僕が読んでいなさそうな本をいくつか集め寄付したのだそう。
その中に絵本があったのかは分からないが恐らく入れてしまったのだろう。普段感情をめったに出さない孫が大泣きしていることに罪悪感を抱いた祖母は、友人にも返してもらうことはできないかと何度も尋ねてくれた。
「遠い場所に送ってしまった」
答えはそれだけだった。
「灰ちゃんごめんねぇ?新しいもん買ってあげっから」
「あの本がいいの!ほかのなんていらない!」
「ほんとに、ごめんねぇ……」
結局どうにもならないまま、鵜等は約束の日を迎えた。
気分が重たくて、学校にもあまり行きたくなかったがおばさんに謝らなきゃという気力だけで歩く。
やっとのことで昇降口に着くと、張り紙に人だかりができていた。
〈本日来る予定の移動図書館は、移動地域が変更になったため今後学校には来ません。
借りている図書がある生徒は、職員室で回収するので持ってきてください〉
悲しかった。今日までで一番、今日が人生で一番悲しい日になった。
もっと本が読みたかったし、おばさんにだって謝りたかった。
でも本当の一番はあの絵本を一緒に読みたかった。
自分と同じく本が大好きで、貸出カードが埋まると嬉しそうに新しいカードを作ってくれるおばさんに、初めてお気に入りの本を尋ねてくれた優しいおばさんにありがとうを言いたかったから。
鵜等灰は、その日初めて一冊も本を読まなかった。
今考えると、背も表紙も真っ白な本がどうして家にあったのだろう?
しかも、あんなに繰り返し読んでいたのになぜ内容がはっきり思い出せないのだろう?
「また、読みたいな……」
高校生になった今も、ふとその衝動に襲われる。と、いうより高校生になってから段々と強くなっている気がする。
二年たった今では数の増えない図書室の書籍を早々に片付け終えれば、閉門のチャイムが鳴るまで入り浸る始末だ。
鵜等の日課。 ー書物の整理と1日1冊、本を読むことー
整理しながらあの本はないか探す。絵本じゃなくても内容が同じものはないか探す。
気づいたら、心の芯みたいな場所につららが刺さっていて、時が経つにつれてとけた破片が心臓にチクチクと流れ込んでいる。痛みは麻痺して全身に巡り発作のようにあの本が恋しくなるのだ。まるで呪いみたいに……。
季節は梅雨に入り、湿気でいつもより埃のにおいが強くなった図書室で鵜等は例に洩れず読書に没頭していたーーのだが気候のせいか少しだるさを感じ、いつもより集中力が続かない。
「いったん休憩しようかな」
席を立ち、気分転換に違う本も漁ってみることにする。今読んでいるのは日本文学だから海外文学とか、歴史書あたりだったら新鮮味があるのでは?とぼんやり考えながら本棚へ歩く。
作者別にきれいに整頓された棚を眺め、ピンとくる本を探していると
「本当にあった……」
自分が見ている棚越しに、クラス委員長の微美野 杏樹(かすみの あんじゅ)がぼそぼそと呟いていた。
鵜等は(微美野さんも本読むのかな?)とさほど興味もないのに思案してみたものの、やっぱり興味がないのでそのまま探索に戻った。
次の日。首を上下にガクガクしながら探索の延長戦をしていると、微美野が図書室に入ってくるのが見えた。便利屋ウトウを頼りに声をかけられるせいで、クラスメイトの顔は一応把握済みだからか、唯一頼まれたことのない微美野を覚えるのに苦労はいらない。
「微美野さん、意外と本の虫だったりして」
『頼み事』でしか会話したことのない鵜等にとって、共通の趣味で話せる相手は希少価値が高い。もしかしたら微美野 杏樹はその類なのかと思うと、昨日より少しだけ興味がわいてくる。
「どんな本を読むんだろう」
話せるかどうかの緊張を好奇心が押し負かしてしまい、鵜等はさりげなく微美野の後を追ってみた。すると、到着したのは昨日見かけた場所と同じだった。
今日は少し様子を窺おうと自分も同じ位置に身を潜める。
鵜等を駆り立てるのは『微美野 杏樹はどんな本を読む人物なのか』ただそれだけ。二分ほど立ち尽くした微美野は、本を取るにはあまりにも慎重な手つきで一冊の白い本を引き抜いた。そして表題や著者名を気にすることもなくパラパラと雑にページをめくる。ふと何かに詰まったのかページの動きが止まった。
「ああ見えて、結構大胆なのね」
ここからだと表情を確認することができないが、くすりとあがった肩は喜んでいるように見える。
そしてゆっくりと何かを抜き取るとそそくさと図書室を出て行ってしまった。
あと一歩で微美野の好むジャンルが分かったのにと落胆するも、鵜等の好奇心は次のタスクを用意していた。
『さっきの本はなんだったのだろう』『抜き取ったように見えたが、ページを破ったのか?』とりあえずこの二点のタスクを完了するべく、微美野がいた場所へ移ってみる。
「確か……このあたりにあったはず……」
図書委員になって二年経つが、異国の宗教や文化、神話のジャンルにはあまり馴染みがない。こういった本は翻訳がかけられていないものが多く、英語訳しかされていないものばかりだった。ちなみにこれは建前。
入学当初。気になって一度顧問に尋ねたことがある。
「英訳を理解したいなら、授業中の居眠りを減らしたらどうか」
これは答えになっていないし、そもそも``居眠り‘‘まではいってない。まだ``うたた寝‘‘の範囲内だ、と思いたい……。
とはいえ、ばつが悪い状況には変わりなかったせいか
「善処いたします……」
と逃げるように帰宅。今では少ししか寝ないとはいえ、そんな記憶と読める書籍の少なさが理由で、読むものがなくなった時にしかこのジャンルには触れてこなかった。
「あ、これ…かな」
厚みのあるえんじ色の本たちに挟まれ、そこには手帳の薄さほどの本があった。ゆっくり手を伸ばし、背を斜めにして引き抜いてみる。
少し大きめのスクエア型で、薄いハードカバーの表紙には読めない字体が擦りへって跡だけが残っている。所々汚れていて鉛筆の芯でこすったような傷も多くあるが、中は新品みたいに綺麗だ。辞典のような滑らかな手触りのページには手書きにも見える明朝体で言葉がびっしりと敷き詰められている。
(微美野さんはこういうジャンルを好むのだろうか?)にしては、『本を読んでいる』感じではなかった。現に借りていくこともなく手に取られた本は戻されてしまっている。
それに、何かを抜いて持ち去ったようだが一体何だったのだろう?紙切れのようなそれがページの一部だったら、書籍を傷つけたことになる。クラス委員である彼女なら到底しそうにない事ではあるが、人は見かけによらないとも言うし……。
覗くのは怖いが、図書委員としても読書家としてもここは一度確認する必要がある。鵜等の好奇心は正義感へと形を変え勇気を奮い立たせた。
そして震える指でゆっくりと表紙を持ち上げる。
表紙とは真逆の真っ黒な見返しをくぐると、扉には読めない文字で書かれた題名が記されている。著者の名前がない事に疑問が浮かんだが、鵜等は構わずページをめくる。
昔の本なのだろうか?まるで誰かがなぞり書きでもしたかのような字体の文章は、今まで読んできたどの本よりも見にくく読みづらい。
仮に「この本を読んで!」と頼まれたら、便利屋ウトウでもさすがに
「無理かもしれない」
と突き返してしまいそうだ。蛇のように長く繋がった言葉はもはや日本語なのか筆記体なのかも曖昧で、辛うじて読める場所があっても前後が理解できないせいで内容が全く入ってこない。
一通り読んでみた結果、ページが破られた箇所はなく内容もさっぱり分からなかった。微美野 杏樹はどうしてこの本を手に取ったのだろう?思っていた収穫はなく、鵜等にもやもやを残しただけだった。
ここ一週間、微美野 杏樹は足繫く図書室を出入りしていた。彼女は決まって 《1-16 宗教・神話 棚:Ⅴ-段:2》 真ん中あたりにある図書を借りもせず、ただ開いて何かを持ち去って出ていく。時間も大体決まっていて17時~17時30分の間、18時閉門のチャイムが鳴りだす頃にやってくる。
例の本もあれから解読できずにいる鵜等は、微美野が帰った数十分で何度も挑戦していた。来る前に読もうとした事もあったが、偶然にも毎回貸出中になっているので自分で借りることもできない。極めつけは、読みづらいことこの上ない文章。これが物語なのか何かの歴史を綴ったものなのかさえ読み解けずにいる。今や絵本の衝動を押さえ、この本はなんなのかが気になって夜も考えてしまう。
それと同時に、鵜等のプライドも揺れ始めていた。一週間頑張っても解読できない本を微美野はパラパラとめくり、時折手を止めて指でなぞるように読んでいる素振りを見せる。実際には読んでいないにしても、毎日のように同じ本を開くだろうか?内容が知りたい。だが
「この本はどんな内容が書いてあるの?」
などと聞けるわけがない。いや……聞きたくないのだ。
読書が好きで読みたい!と思ったら漢字が難しくても、英語ができなくても何とか自分で読破してきた自慢のプライド。
ただ……内容が知りたいのも事実。鵜等は自分のプライドと天秤にかけてみるも答えは決まりきっていた。
「今日こそ、微美野さんに聞いてみよう」
一か月前から予告されている国語のテストは明日に迫っているが、おかげさまで勉強など手につくはずもなく。こんなことなら、もっと早く彼女に聞くべきだったと、つまらない意地をはった自分に嫌気がさす。
彼女も変わらず、ルーティンのように図書室を訪れ同じ動作で帰っていく。
少し変化があったとすれば、人差し指にだけ赤いネイルを塗り始めたことだ。校則は厳しいものではなく、制服を着ていればなんでもよしの学校なので問題はないだろう。ないのだが、かなりどぎつい赤で人差し指にだけ塗りはじめたのは、あまりに不可思議である。それも教室ではしゃぐギャルではなく、あの真面目でおとなしそうなクラス委員の、微美野 杏樹が。
まぁ気になる点はそれくらいで雰囲気や性格が変わったわけではなさそうだし、ひとまず安心。
鵜等もいつも通り、放課後すぐに図書室へ向かった。(今日は絶対に微美野さんに声をかける!)と強い意志を掲げて。
《1-16 宗教・神話 棚:Ⅴ-段:2》真ん中
無いと分かっているが、一応確認しておく。今日も変わらず≪貸出中≫だ。
鵜等は妙な緊張感と、ついに本の内容を聞くことができる高揚感でそわそわしていた。
(微美野さんは快く教えてくれるだろうか?)(自分もこの本読んでましたって言ったら、どんな反応をするのだろうか?)
今日ばかりは便利屋ウトウの雑用も難なくこなせた。鵜等はただ一心に『楽しみ』でいっぱいであるからだ。17時15分。チャイムをかけるアナウンスが校内に響く。
微美野は、走ってきたのか呼吸を整えながら図書室に入ってきた。ゆっくりと深呼吸をしながらいつもの場所に向かっていく。
鵜等も不自然にならないように、予め微美野の視界に入る位置で本を探すふりをする。
初めて見かけた時はどこか人目を窺うような挙動をしていたが、微美野は慣れた素振りでいつの間にか返却されている本を探し当てる。
彼女が本を手に取るタイミングで、鵜等は思い切って声をかけた。
「あ、あの……微美野さん」
「きゃっ!う、鵜等くん!?」
急に声をかけたせいだ。鵜等に目線を合わせると同時に微美野の手から本が落ちてしまった。
「ご、ごめん!急に声をかけてしまって。僕が拾うから」
「…えっ、あ!だ、大丈夫……っ!」
「……ん?これって……」
彼女の足元には、蝶の羽のように開いた表紙を上に向けた本が。拾おうとかがんだ鵜等の足元には、【国語 テスト(答案) 頑張ってくださいね♡】と書かれたプリントが落ちていた。
「これって……」
「う、鵜等くん。お願い!このこと、誰にも言わないで」
「え……でもこれって、明日のテストの問題じゃ……このメッセージは…?」
「先生と私の秘密なの。ばれたら先生は学校を辞めなくちゃならない」
鵜等は混乱していた。挨拶をして、本について話して、内容を聞いて。あわよくば微美野の好きな本を聞いてみるつもりだった。ただそれだけのはずだったのに。
聞かされたのは、この本を通して国語の教師 井田原(いたはら)と文通していること。付き合ってもらう代わりに次のテストの答案を渡す、と約束したこと。テストが満点だったら初デートに行くこと……
心底どうでもよかった。鵜等の頭は今日までのことが全部こぼれ落ちたみたいにまっしろだった。それでも、目の前で泣く微美野にティッシュ一枚も渡したくないほどのとてつもない嫌悪感だけが鵜等の心を支配する。
「もしばれたとしても、私が退学にならないようにするって、言ってくれてっ」
「あぁ…うん」
なんて下らないんだろう。
「辞職することになったら、毎日電話するからって。それでっ、」
「そうなんだ……うんうん……」
もう帰りたい。この場所から逃げたい。
「卒業したら、結婚しようねって言ってくれたの!!」
「……。」
「だから、鵜等くん!このこと、内緒にしておいて!お願い!」
頼むからこれ以上関わらないでくれ。失望と嫌悪と落胆と怒り。久しぶりの感覚に鵜等は今、下を見つめることでしか感情のコントロールができない。
クラス委員の微美野杏樹。国語の井田原。携帯小説のようなことを現実でも……とか、夢を見るのは勝手だ。だだ、自分たちの妄想ワールドに現実を生きる人間を巻き込まないでほしい。
「ねぇ、鵜等くん……」
「……ぼ、僕にはできな」
「便利屋ウトウ。でしょ?」
急に低くなった声色に顔をあげると、泣きじゃくる微美野の表情は消え、瞳孔の開ききった目がこちらを一点に見つめている。表情筋が死に、魚のような光を通さない目が、全身を見透かしているかのようで息が詰まる。
目を逸らそうにも、指を動かそうにも、声を出そうにも、神経が通っていないみたいに鵜等の身体は動かない。怖い。
図書室に充満する嫌な寒気が足先から支配する。瞬きひとつもできない鵜等を、嬲るように染めていくのは純粋な恐怖心だった。
図書室の冷房が カチン と音を立てて切れる。合わせて、目の前の微美野の表情がゆっくりと変わる。薄い唇が横に伸びて、口角が上に吊り上がる。真っ暗な瞳孔はいつの間にか角膜を覆い、目に映る鵜等を飲み込んで広がっていく。
引き攣ってあいた口が細く息を吸い込み、針のように尖った歯がキリキリと音をたてた直前。
「うん。わかった。誰にも言わない、から……」
梅雨が明けた熱帯夜には扇風機も形無しだ。 それなのに寒い。
しまったばかりの毛布を引きずりだし、隙間ができないように壁にもたれて縮こまっている。逃げるように帰宅してからずっと、震えがおさまらないのだ。明日が怖くて寝付けない……思い出したくなくてもあの光景は鮮明に焼き付いている。
夕日が差し込んで図書室を朱色に染めていた。鵜等の背が影になって微美野の顔にわずかな光が落ちる。石膏のように固まった微美野の目に飲まれた自分を朱色がゆっくりとそめていて、「YES」を得た瞳孔は閉じないままからっぽの
「お願いね」
を置いて去っていった。
微美野がいなくなるとすぐに見回りの先生が来た。
「もうすぐ下校時間になる。ここも閉めるから、早く出なさい」
心臓を直に握られていたかのような圧迫感がほどけていく。気道が開き血管に血が流れ始める感覚でやっと息ができることに気づいた。
それから今に至るまで動けずにいたが、夕飯を食べそこなった空腹感がようやく自分の思考と向き合えそうな余裕を作ってくれた。ゆっくりと毛布から這い出た鵜等は通学用のリュックに目をやる。
「明日の支度、しないと……」
明日。国語のテストは5時限目……。いっそのこと休みたい。勉強だってほとんどやってないから、行っても行かなくても変わらないとは思う。ただ鵜等にとっての欠席は、皆勤賞の消滅及び放課後の委員会での簿記不在に直結してしまうため自ずと選択肢から排除しなければならなかった。
ゆっくりとファスナーをあけ教科書を入れ替える。ノートや提出するプリントをまとめていると、鵜等はあることに気づき手を止めた。
『自分が暴露する以外で、ばれなければいい』
そうだ。秘密を守れば何事もなく済むし、明日のテストが終わってしまえば自分はもう関係ない。なんでこんなに重く考えていたのだろう?
微美野と井田原の関係は現実的には”よくないこと”だ。
それを知ったからと言って、鵜等が何かしてやる義理もない。校長先生に密告し二人の行いを正すことも、このまま関係が続いて幸せになるまで見届けることも、今後の自分の人生にとってはどれも必要ない選択肢だらけだ。
つまり。『鵜等灰が誰にも言わず、今後関わらなければいい』
最悪な最適解がでると、少しだけ気持ちが沈む。本当はこんなことしたくない。それでもあんな怖い目には二度と遭いたくないし、微美野杏樹がとても恐ろしい人間だということにも蓋をして早いこと忘れたい。
気持ちを切り替えて予習でもしようかと、リュックの底に沈んだペンケースを取り出す。すると鈴のついたチャームに引っかかって、何かが一緒に持ち上がる。
「ノート? これって…!なんで……」
ついてきたのはあの白い本だった。気が動転していたから間違って持ってきてしまったのか……。せっかく勉強しようと思ったのにこれはあんまりだ……。
この本に興味を持たなければ微美野の本性を知ることはなかったし、内容もわからない、そもそも読めない本など見限ってほかの本を探せばよかった。
「こんなの、呪いの本だ……」結果が見えていることを繰り返すのは好きではないが、ここまできたらやけだ。机に置くと突っ伏した姿勢のまま、雑な手つきで本をめくる。ひらひらと薄い紙が左から右へ束になっていく。
「僕もこいつみたいに力があったらなぁ……」
本を机に置いたまま人差し指と親指でめくっていた手は、両手で支えページを確認しながら束にしていく。
「そんなことしたって、誰も幸せにはなれないのに……」
無意識に机の引き出しをあけ、読書用の眼鏡をかける。電気スタンドの明かりを少しあげて、右足で椅子のキャスターを動かないように固定する。
「権力も愛も金で買えるって……そう簡単にはいきっこない……」
頭で場面を形成していく。あたかも自分がその場所にいるような視点から物語の行く末を見守る。
「結局は全部自分に返ってくるんだな……って、あれ?」
本は静かに閉じられ、めくるページももうない。そんなに厚くない本なのに時計は2周半も進んでいる。
「読めてる……。ていうか読めた!?」
今日という日まで、一行も理解できなかったはずなのに……。物語のクライマックスを見届け、まるでジェットコースターのような男の一生にこの世の真理を垣間見たようで、後味は何とも言えない感情を残した。
同時に、読破できたことへの多好感。何度読み返してもミミズか蛇にしか見えなかった文字が、文章として理解できることへの驚嘆。
実感が湧かず再び本を開くと、そこには確かに物語があった。鵜等はテスト勉強のことなど一瞬で忘れ、明け方まで没頭するのであった。
「今日5限テストじゃね?」
「うーわ…最悪!教科書忘れた!!」
「ラッキー!あたしより有望な赤点候補がいたわww」
「いや、どんぐりの背比べだしwwてかみてー!ネイル変えたー!」
鉛のような足を引きずり登校したが、3時限目が終わってもいつもと変わらない教室にほっと胸をなでおろす。後ろに座る微美野も、朝は普通に挨拶してくれたし、そのあと釘を刺されるようなこともなく"いつも通り”一日が進行していく。
鵜等には僅かに焦りが芽生えていた。きたる5時限目。
もし自分が何かしなかったとしても、微美野と井田原によって不当な扱いを受けるのではないか?自分の答案を改ざんして赤点にされてしまうのではないか?テストが終わったあと、微美野に口封じされるのではないか?
想像がどんどん膨らんであらぬ方向まで不安を広げてしまう。
(大丈夫……。僕が動かなければ、なにも起きない……)
朝から何度も言い聞かせている言葉を、授業が終わるたびに心の中でつぶやく。徹夜したせいで身体は重たいが、頭はやけに冴えていた。
それに感覚も。2時限目は鵜等の居眠りボーナスタイムである英語だった。意識が船を漕ごうかと船着き場へ向かう最中、毎度刺すような視線を感じる。おそらく後ろの席の微美野からだろう。棘のような視線が首筋から頭頂部へあがり、数秒止まったあとゆっくり外される。自分越しに黒板を見ているだけだとしても、その度に背筋が凍る感覚がどうにも気になって集中できない。
「あと1時限……我慢だ!鵜等灰!」
脳内の強気な自分が応援する声で我に返り、予鈴が響く屋上で好物の詰まった弁当をかきこんだ。
5時限目開始のチャイムがなり、皆バタバタと席に戻る。鵜等はいつになく緊張した面持ちで授業が始まるのを待った。扉が開き、当番の生徒が号令をかけた。
「起立。礼。よろしくお願いします」
「「おねがいしまーーす」」
「あれ?ときめせんせー?」
「では、始めます。本日は教科担当の井田原先生がお休みのため、代理で授業を行います」
"いつもと違う"声がして、この授業中だけは決して前を見まいと固く瞑った目を、恐る恐るあけると家庭科担当の破坩 鬨鳴(わるつぼ ときめ)先生が長い金髪を耳にかけ名簿を開いていた。
「はらセンどうしたのー?」
「井田原先生はひどい腹痛のためお休みだそうです」
「井田原、はらいたってか!……さむっ!」
「やばーw名は体を表す的なー?」
教室が一気にざわつきはじめる。この空気はあまり好きではないが今は、鵜等にとってありがたいものだった。
「予告されていたと思いますが、ただいまより国語のテストを行います。時間は45分、終わった生徒は手をあげてください」
「えーー!普通にテストやんの?」
「ときめせんせー!自習にしなーい?」
「嫌なことを先延ばしにしても変わらないですよ。机の上には鉛筆と消しゴムのみ用意してください。テストは伏せたままで、前から回すように」
井田原じゃないだけで、これほど救われたことがあるだろうか。これでもう思い悩む必要もなく、予習の足りない問題に集中して博打が打てる。
(ひょっとしたら微美野さんも安心してるんじゃないかな?顔を合わせずに済んだんだし……)呑気に考えながら前から来たテスト用紙を後ろへ回す。
「はい……」
「どうも」
俯いている微美野の表情は見えないが、一件落着で良かった。渡し終えた鵜等は素早く前に向き直り開始の合図を待つ。
「全員、いきわたりましたね。では、はじーーー」
「え?これ、答案……?」
合図の代わりに響いたのは「答案」の言葉だった。……そんなはずはない。微美野はこういうものには抜かりなさそうだし、自分のことなら尚更徹底的に隠すはず……。
「えっ!マジだ!!これ、今からやるやつじゃね!?」
「なんでここにあんのー」
「落ちてきたから拾ったんだけど……」
一旦は緊張の糸が張った空気をどよめきがぶち壊し、わらわらと言葉が飛び交う。近くの席にいる者は身を乗り出しすぐに群れの山ができた。鵜等の真後ろで。
「どっから落ちてきたん?」
「つか、誰のだし~」
「カンニング、ダメぜった~い!!」
落ち着きは帰ってこない。でも絶対に振り向いてはいけない事だけは分かる。鵜等は一人、裏返したテストの一点を見つめてこの場が過ぎることだけを考えた。それしか自分の思考を逃がしてやれる術がないから。
「落ち着きましょう。わたしの手違いです。解答用紙のなかに紛れていたようです」
ざわざわと膨らむ声を、凛とした穏やかな音が包む。ときめ先生が山の外から声を投げてくれたのだ。しん、と静まった空間をコツコツとヒールが歌いだし、山を切り開らいていく。
(頼む。これで終わってくれ……!)机の下で握った手にさらに力を込めて祈る。
「あれ?ここに名前かいてあるよ?微美野杏樹って……委員長?」
もうおしまいだ。本格的に収集のつかなくなった教室は、この階のどこのクラスより騒がしくなった。黄色い歓声や、嫌悪の混じったまなざし。各々の憶測が連鎖し肥大していく妄想。
「はらセンと委員長デキてんのー!?」
「頑張ってくださいね♡だって~!ヤバ~」
「不正行為だ!えんこー!!」
「教師と恋愛とか、ちょっと羨ましいかも……」
「退学案件乙ww」
2度あることは3度あるもの。名前まで出されてしまっては、微美野ももう言い逃れ出来ないのか皆の喧騒に俯き、立ち尽くしている。身じろぎひとつしない静けさが、鵜等の感覚をざわつかせた。すっ と小さく吐息が漏れる……。
「それ、鵜等くんに渡されたの」
「君のために、井田原先生のデスクから盗んだんだ、って……」
「これをあげるから僕と付き合ってくれ。付き合ってくれないなら、みんなの前で井田原先生と付き合ってるって嘘つくぞって、脅されて……」
何を言っているのだろうか。耳馴染みのない言葉と聞きたくない名前が、一番最低な人間から発せられている。鼓膜が圧迫されて音が籠る。
皆の視線が突き刺さる。怖い。痛い。小さなささやき声が耳鳴りと一緒に響く。やめろ。違う。
「人って見かけによらないよね……」
「言い返さないってことはぁ、マジかよ……」
息ができない。頭ががガンガンする。視界がぼやけて何も見えない。
「ちがっ……ぼ、僕じゃな」
「この卑怯者。人のせいにするなんてサイテー!」
乱れた息継ぎで振り絞った声は屈辱的な言葉と共にかき消され、真っ赤に染まった爪が僕を指さす。あのおぞましい目で。
呼吸が乱れて息があがる。頭が揺れてふらつく。涙があふれて視界が滲む……。
「Richter」
グツグツと煮えたぎるような轟音の中へ、意識を手放す瞬間。
耳に飛び込んできたのはやわらかく透き通った音。
なぜだか安心して、僕は眠りについた……。
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