何のための会話か
心配し過ぎやわ、大丈夫大丈夫、と上司はなぐさめてくれた。今日、仕事でとりかえしがつかないかもしれないことをしてしまった。もちろん詳細を書くわけにはいかないけれど、電話でのやりとりだ。自分の一言で、明らかに相手が動揺したことが分かった。“あ、まずかった……かも”と思ってももう遅く、そこから相手の受け答えは如実にそっけなくなった。取り繕おうとして空を切る二、三の虚しい話題の後、電話を終えた。
言葉として不適切なものを使ったわけではない。すぐに自分の使った言葉をメモして、それを上司に見てもらった上で「問題ない」と言ってもらったから確かだろう。それは、相手を気遣うつもりで発した一言。「大丈夫だった?」みたいな。他意はなかった。でもそれが、相手の中で嫌な形に急激に膨らんだのかもしれない。不用意だった、わざわざ言わなくてよかった、と後悔するがもう遅い。
僕は言葉が軽すぎるときがある、と思って、森絵都の物語『帰り道』を思い出す。妙に心に残ったのは、物語の手法としてとてもおもしろかったのもあるだろう。それ以上、共感というか、身につまされる部分があったからなのかもしれない。周也と律が出てきてそれぞれ対照的だが、なんかどちらにも共鳴できる部分があってちょっと個人的に忙しい話だった。
時々言葉が軽くなり過ぎる、思慮が浅すぎることがあるのは自覚しているつもりだ。それもここ一、二年でそんな自分への焦燥感は加速している。どんどん悪化しているのかしれないし、年ばかり取ってそのあたりがついてこれていないのかもしれない。分からないが、全体の中にいて自分で自分が嫌になることが時々ある。分かっているならやめればいいのに。いつも後になって気づいてしまう。
小さな確率だけれど、本当に「心配し過ぎ」だった、と笑える可能性はある。だとしても、間違わなければあんな「動揺」をさせることなんてなかった。「他意はなかった」と祈る。どうか、悪い方に解釈していませんように、と願うしかない。もはや自分の手から離れてしまっていて、祈るしかないことが本当に不甲斐ない。
もう誓うのは何回目か知れない。それでも思ってしまう、「よく考えて発言する」。想像力のなさにうんざりしてしまう。最後に、最近Twitterで流れてきた名言を、改めて肝に銘じるつもりで引用しておく。浜ロンさんの自称「ダ名言」だ。
「会話において気を付けている事は『相手に恥をかかせる様な言い方』をしない事。」
金言だ。何のために会話をするのか。今日は反省の日。