祈りと努力
某漫画の某ゲス外道の「喜びしか知らぬ者からは祈りは生まれません」というセリフが好き。
冷静に”喜びしか知らぬ者”とかいる?と聞かれれば返答に困るけれど,祈りの持つ神聖さというか,真剣さは,既に満たされているところには生まれないものだと思う。
努力も同じな気がしている。既に現状に満足していて,そこからさらに積み上げていく時には”努力”というものはできないのではないか。努力とはすなわち祈りだと思う。
その理論があるとすれば,私の苦々しい心持ちながら,日々を工夫で装飾し少しでも輝かしい日々にしながら生きている様は,祈りになるだろうか。
私が毎日していることは努力なのだろうか。
一番苦しくって耐えるだけの毎日よりかは,今,随分生産的な毎日を送っている。東京の街で,毎日きちんと出社して,常に何かを押し進めている。
しかしこれが祈りのような努力なのであれば,私は何に祈っているのだろう。
私はトコトン困った時と,いた方が面白い時しか神を信じない。
なぜなら神は,私が助けを求めた時に助けてくれなかったからだ。
「神は乗り越えられる試練しか与えない」とかいう言葉が嫌いだ。頼んでないそんな試練なんか。私は私に必要な試練を自分で選ぶだけの頭はある。ナメんな,勝手に決めんな。
だから神には祈っていない。
精々なりたい自分,そして理想郷だろうか。そこに自分がたどり着きますようにと。
そうすると,その願いをかなえてくれるのはそこに至るように努力する今の自分ということになるが…
結局信じられるのはどこまで行っても自分なのだと痛感する。
Excelの循環関数のポップアップを消す方法が今夜の特効薬。
明日少しでも今日より強い人間になっていますように。