圧のかけあい

世の中のコミュニケーションの大半は、圧の掛け合いなのかもしれない。自分自身がほんの少し前まではほぼすべてのコミュニケーションがそうだったし、今もそうなってしまっていることがある。そういうコミュニケーションのスタイルは緊張を相手だけではなく自分自身にも生み出す。自分自身にもダメージがあることを自覚していながら、そういうことがあるのは滑稽にも思える。犬と犬が出逢っても威嚇し合ったりするのだから、圧の掛け合いをすることは悲しいことだけれど案外自然のことなのかもしれない。

飲食店で店員に傲慢な態度で注文をする人もいる。客という立場を利用してそういう振る舞いをする人は、どこかで圧をかけられたその緊張をなすりつけようとでもしているのかもしれない。劣等感の強い人ほど、自分をより大きく見せようとマウンティングしたり、立場の弱い人に圧をかけるように思う。

自分自身も前の車を急いでいると煽ってしまったり、慎ましさのない下品な圧を他人にかけてしまうことがある。振り返ると身体や心に余裕のない時に、無駄な圧を他人にかけている。圧をかけられたことで余裕がなくなり、また他人に圧をかけているなんていうケース、圧のなすりつけ合いは社会のあちらこちらで起こっている。牧歌的な世界が削られていけばいくほど、より圧のかけ合いは当たり前になっていくだろう。ミヒャエル・エンデの児童小説モモを思い出す。

圧を相手がかけてきた時に、それに反応して緊張することがなく、柔らかく関わられることもある。そういう自分を見つけると、本当にホッとする。脳の緊張によって反射的に緊張する筋肉(副神経支配の筋肉の1つである僧帽筋上部繊維など)が圧をかけられる前の時点で、どれだけゆるんでいるのかは自分にとってとても重要だ。それが自分のキャパにも思える。自分という人間の器、器量がそもそもあって、そこに緊張という液体が既になみなみと注がれているのであれば、自分はすぐにその圧に対抗しようと圧をかけ返す振る舞いを反射的にしてしまうかもしれない。あるいは、その圧にやられてしまうだろうと思う。

自分にたいした器量は残念ながらないと自覚しているので、社会生活の中でいつ誰から圧をかけられるかわからないのだから、自分が快適に社会でいくためにはその緊張を早め早めに抜いておく必要がある。疲れきっている時に、身内などに油断して圧をかけられてしまうと本当に大変で人嫌い・人間不信になってしまう。圧を誰かにかけている姿を俯瞰的な位置から見ているとき、本当に醜悪な人間が目の前に存在しているなと嫌な気分になる。自分に余裕があるときに、自分にそういう態度をとる人がいると好きな相手であれば悲しくなるし、そうでなければ弱い人間だと見下してしまう(性格が悪くて嫌になるけれど)。裏を返せば、自分がそういう醜悪な人間であり、弱い人間なのだ。そういう自分が少しでも現れなくて済むように、緊張を抜く、ゆるめることは生きていく上で最も重要なことだと思っている。

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