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「夜物語・今晩屋」勝手解釈

はじめに
 皆さんこんばんは、今回は「夜会 VOL.16~夜物語~本家・今晩屋」の勝手解釈を書いてみようと思います。今まで何度観ても理解が出来ず、観るたびにモヤモヤした気持ちでエンディングを迎えていました。夜会は解釈が難しいと言われますが、中でも難解とされるのがこの「今晩屋」です。中国肺炎の影響もあって、私も時間にゆとりが出来ましたのでこの機会に自分が納得できる形で勝手に解釈をまとめてみようと思い挑戦しました。
 今回の解釈では宗教的解釈が多く登場します。しかし私は宗教に関し教養が有るわけでは有りません、その為、詳しい方が見れば間違っていると言われる点が数多く有るかと思います。付け焼刃の知識ですので、そこはご理解頂ければと思います。

1.浄土に行くことがすべて?
 先ずは私がすんなりとこの夜会を理解することが出来なかった原因であろうことから書いてみたいと思います。それは私に仏教的感覚の根本が備わっていなかった事だろうと思います。仏教の基本的考え方を持たずに私達が生きている通常の認識でこの物語を観てはなかなか理解が難しいのだろうと思います。
 では基本的な考え方を少し説明してみましょう。仏教では私達が生きているこの地を穢土と呼ぶそうです。穢れた地ですね。私達は産まれながらに罪人であり、その罪を償うためにこの地にいるのだそうです。幼い頃私はいい人間は天国に、悪い人間は地獄に行くと教わってきましたので、この初めから我々が罪人であるという考え方が少しびっくりしてしまいました。そして私達が克服しなければいけないとされている三毒があります。貪・瞋・癡です。この三毒は人間の諸悪、苦しみの根源として考えられているそうです。また仏教ではこの三毒を手放さなくては浄土に行けないとされています。この基本的な考え方を持っていなかった私はエンディングを観た時にどうして互いに罪を許し合わなかった彼らが弘誓の船に乗れたのかが分からずにいました。そんなとき影ピコに「浄土に行くことがすべてなんじゃない?」と言われ、一瞬で考えの根本が間違っていたことに気が付きました。私はどうしても物語はこの一生の間で完結、ハッピーエンドを迎えてから浄土に行くものだと思っていました。でも違ったんです。最終目標は浄土に有りそこにたどり着くことが魂の救済になるということに気付かされました。とりあえずこの地にいる私達が罪人であり私達の向かうところが浄土であるということ。また我々には三毒が有り、それを手放さなくては浄土に行けないとされている事を覚えておいてください。

2.安寿と厨子王の誤ち
 皆さんは安寿と厨子王が、あの幽霊交差点で何をしているのか気付きましたか?実際には転生後の姿でですが。私は彼らが同じことを繰り返している事に気付きました。安寿を捨て置いて逃げた厨子王、厨子王を逃した後、誓いを捨てて沼に身投げした安寿。その二人は輪廻した先の生でも同じことを繰り返し、あの幽霊交差点でも同じことをして逃げていると感じました。
 先ずは厨子王です。実際には転生後の姿でホームレスの男と成っていますがややこしいので厨子王と書きます。禿も安寿とします。厨子王は最初、自分の名前が分からない、名前は売っていないか?と暦売に問います。暦売は萓草という言葉を囁きます。この萓草とは山椒大夫が厨子王に付けた名です。とにかく厨子王が己が何なのかを必死に思い出そうとするのですが、最終的には思い出すことを辞め、何かの力に導かれるように縁切り寺に入ります。この縁切り寺は安寿と厨子王の物語での国分寺であろうと思います。厨子王が追手から身を隠した寺のことです。つまりこの寺に入ることは骨肉分けた姉を捨て己だけ逃げるという事と同じことを意味します。姉を捨てて逃げた厨子王が輪廻しあの縁あるものがすれ違う幽霊交差点でも置き忘れた物を捨て、来生に向かうというわけです。厨子王はあの時の心残りに縛られ輪廻の先でも同じ過ちを幾重と無く繰り返して居るものだと考えられます。
 では安寿はどうでしょう?厨子王と再会の誓いをたて水杯を交わしますが、その後に沼に身投げし厨子王との誓いを捨ててしまいます。安寿はその誓いを捨てた事に心残りが有るのだろうと私は思います。安寿は縁切り寺に入る前、過去を眺めあの日、あの時の誓いを捨てた事に後悔し寺に入ることが出来ないようでした。しかし「憂き世ばなれ」の歌と共に寺に踏み入ります。憂き世ばなれとは「世間俗事の煩わしさから超然としていること」と辞書にあります。つまり思い悩むことを捨てたという事に成るのです。ここでこの歌の歌詞を見てみましょう。

”大切な大切な何かを無くし その後は
生きている我なのか 生きてはいない我なのか
我と我が身がわからない 心もわからない

大切なものなんて端から無いと 思い込もう
失くすにも壊すにも 何ひとつ無かったと
我と我が身がわからない 心がわからない

どうせ嘘なら壁ひと夜 遠く隔てて忘れたや
どうせ嘘なら葦ひと夜 あとは野となれ山となれ”

あとは野となれ山となれという言葉からも分かるように投げやりな心境の歌だと私は感じました。あまりの辛さに耐えかねて、大切な弟との誓いを捨てた姉の歌です。弟を逃したつもりの姉が今度はその全てを捨て逃げる。「私の罪は水の底」の歌詞に出てくる「逃げてゆかせる者のほうがすぐ逐おい抜いて」というフレーズはこの事を指しているように私は考えています。そしてその安寿も輪廻し、またこの幽霊交差点で憂き世ばなれの道を選んでしまいます。選んだというのはおかしいかもしれません。正確にはなにかの力によって動かされているという感じでした。私が考えるにこれが因果の通り(因果応報)なのでないかと思います。二人のあの時の罪は魂に深く刻まれ、名前や肉体が変わってもその罪は消えない。その因縁によって彼らは輪廻の中で同じ過ちを繰り返す定めを与えられ彷徨い苦しみ続けているものだろうと思います。これが安寿と厨子王の誤ちと、誤ちに対する結果なのです。

3.暦売・今晩屋・夜
 私が考える最中何度も頭が痛くなったのがこの夜会のタイトルで有る、夜を象徴するもの達です。現段階で私が考えを落ち着かせているままに書いてみることにします。先ずは暦売りです。先にも書いたとおり、暦売は厨子王に「萓草」という言葉を囁き過去を思い出す手助けをしようとしていました。そにてこう言います「本当は忘れていないでしょ?」私が考えるに暦売りは、暦を見せることで、過去に目を向けさせるきっかけを与えているのでないかと思っています。「暦売りの歌」の歌詞を見てみましょう。

”嗚呼 1日を何処へ運ぼうか
過ぎ去りし過去の日へ 暦を直すため
嗚呼 1日を何処へ運ぼうか
未だ知らぬ先の日へ 暦を先取るため
愚かさは輪をかけて 自惚れという輪をかけて
手に負えぬ今日の日を 悪態吐きつつ捨てかねて
暦はいかが 新しき古えを
暦はいかが 1生1度の1日を
総て良き日であるように”

この歌詞には2つの道が提示されているものだと私は思っています。過去に目を向けるか、見えない未来に目を向けるかの2つです。そして愚かさと自惚れという言葉が出てきます。この言葉は戒めの言葉と感じます。
 ここでちょっと私自身の話を挟んでみようと思います。ここ数ヶ月の間に自分の周りで起きる家族間のトラブルが何故生じるのかを考えたことが有りました。私の両親は私が中学の頃離婚しています。私は母に引き取られましたが、妹は父が引き取りました。妹には軽い障害が有り、母では面倒を見れないというのが理由でした。私はその事を良いとは思っていませんでした。しかし当時、父との仲が険悪だった為、その時あの状態から解放されるものなら妹を犠牲にしても良いと本気で思っていました。残される妹の思いがどんなものだったか想像できなかった訳では有りません。その時、抱いたあの思いは今でも自分の物と認めたくない物です。私はとにかく離婚さえしてくれたら自分は苦しみから解放されるものだと信じていたのです。しかしそうではないんですね。職場などの人間関係はどうしようもなくなった際、辞めてしまえば縁は切れます。でも家族の縁は切れません。今でも度々問題が起きては思い出したくない過去の記憶が心の深い所からやって来ます。私だけでは有りません。あの時に全員で諦め放置した思いは今も尚私達家族の心に分散して靄を造っています。そしてその靄を各自で背負ったままこの後の人生を歩み続けることに成るのです。あの日、あの時、私の一家が問題を直視せず諦めた事で問題は解決されず、遠くに置いてけぼりに成ってしまったからです。今ではもう皆がバラバラになり問題を一緒に直視することも叶わなく成っています。今だから私もそう思えますが当初はそんな心のゆとりは家族全員が持っていませんでした。
 そろそろ話を戻さなくてはいけませんが、この問題の中で私が気付いた事は「人間は過去しか生み出せない」という事です。過去の誤ちを整理していく、後ろを振り返った時に縺れた糸の数は少ない方がいい。問題から逃げてもチャラにはならない。逃げれば逃げるほどに自分の後ろに縺れた糸が山積みになり、増えれば増えるほど糸を解くのは難しく成る。という事です。その糸を解きながら一日一日を送ることが出来たなら最終的には縺れのない綺麗な糸が並び一日一日が全て良き日になるのではないかと思ったのです。と、そんな考えが先に有ったのでこの歌詞の見え方は私に都合のいいように映っているのかもしれません。しかし今の私にはそう見えるのです。つまり私が言いたかった事は暦売りはそんな気付きを与えてくれる存在なのではないか?という事です。
 では次に夜を売る者、今晩屋について書いていきます。この夜が何を指すのかで解釈が大きく異る事に成るであろう重要なワードです。私はこの夜を「境」だと解釈しています。舞台と成っている縁切り寺は常に夜でありその夜は除夜であります。そしてその除夜に鳴り響くものが百九番目の除夜の鐘です。先ず除夜とは何でしょう?大晦日の夜の事ですね。この除夜に鐘をつき一年分の煩悩を打ち払う物が除夜の鐘です。除夜の前は煩悩を持ち、除夜の後には煩悩がない状態。その除夜が夜なのだと私は考えました。煩悩とは先に書きました三毒の事です。この三毒から齎される悲しみ、苦しみを手放してしまう事はその事々が全て無かった事としてしまう事とも考えられます。先にも書きました「憂き世ばなれ」の一節に「どうせ嘘なら壁ひと夜、遠く隔てて忘れたや」というものが有ります。この壁ひと夜こそ、その境なのだと考えます。その一夜は耐え忍ぶよりも遥かに楽に超えられる壁なのだと思います。安寿にとってそのひと夜は誓いを捨てて身を投げた行為であり、厨子王にとってのひと夜とは姉を捨て逃げた寺だったという事です。しかし本当の意味で除夜が二人に与えられていればどうだったでしょうか?安寿も厨子王も憂き世ばなれ出来ていたらどうでしょうか?全ての柵から解き放たれ、己の人生を己だけの物として歩めたでしょうか… そんな事は考えても無駄な事ですね。そんな事はありえない話です。私達が大晦日につく鐘も本当は煩悩を払う事など出来ません。誤ちを無かった事として置いてけぼりにするだけです。この縁切り寺も仮初の物で身体、名前、記憶を消し去りますが、魂に刻まれた十文字は輪廻しても消す事は出来ないのです。この今晩屋はそんな我々にとって惑わしとも取れる物を要らないか?と問うているのでないかと思います。その引き換えに私達の一日一日を貰うと言っています。そうです、この問題から背を向ける、目をそらす行為は自分の明日を捨てる行為に成るのです。又は目の前に有る大切なものを見なかったことにしてまだ先の見えない未来を追い求めては大切なものを失いさらなる誤ちを生むという事に繋がります。しかし私達は目の前の課題よりまだ見ぬ未来が良いものと信じて追い求めてしまう生き物である事は変えようのない事実でしょう。それこそが三毒のもたらす苦しみなのでは無いでしょうか?そして私達はいきている以上その苦しみから逃れることが出来ない。一切皆苦、苦は終わることがないのです。
 あなたの十文字はどこに隠していますか?あなたは自分に罪がないとお思いでしょうか?「本当は忘れていないでしょ?」あなたの十文字は掌の上に有り、目を向けようとすればいつでも見ることが出来るものなのです。普段は目を背けて居るだけに違いないのです。それでも尚あなたは夜が欲しいですか?終盤に歌われる「夜いらんかいね」は私達にそう挑発するように歌われる歌だと解釈しています。

4.月
 この夜会を何度も見る内に気付いたのが、この月という存在でした。台詞に月という物が出てくることは無いのですが、重要なシーンに成ると決まって月が印象的に演出されます。この夜会において月が大きな役割を担っている事は、間違いないと思います。先ず私はこの月が都、月の都と考えています。台詞に「都は夜の無いところ、目も眩む、眩きところ」と有りましたように、夜にも光を放つ月は夜のない世界だと解釈したためです。そして穢土に除夜である夜が無くてはいけない理由はそこに住む者に煩悩が有るからです。しかし月に住む者には煩悩が有りません。なので月に夜は来ませんし、月に夜が存在する必要がないわけです。そしてこの月の都こそが浄土であると私は考えます。私達の魂が向かう最終の目的地がこの浄土です。しかしこの浄土へは赦され河を渡らなくては行けません。しかも弘誓の船に乗り仏の導きが無くては渡ることが出来ないのです。ではどうすればこの弘誓の船に乗ることが出来るのでしょうか?これはもう私が解釈した事の結論に成ってしまうのですが、三毒だと思っています。一番最初に書いた通りこの三毒は悪であり、捨て去らなくてはならない物とされています。しかしこの夜会においてはこの三毒こそが重要な物と言っているように私は感じたのです。ここで「天鏡」の歌詞を示します。

”その鏡に映るものは 隠しきれぬ愚かさと
その鏡に映るものは 拭いきれぬ悲しみと
その鏡に映るものは 失くしてから気が付く愛しさ
その鏡に映るものは 置き忘れた約束と
その鏡に映るものは 通り過ぎて気が付く誤ち
その鏡を手にすることに焦れ
戦を起こす 心を捨てる
手にする物は 砕け散る道標
その鏡は 人の手には触れることの叶わぬもの
その鏡は 空の彼方 遥か彼方
涙を湛えた 瞳だ”

私達は三毒が与えられているが故に惑わされ、本当に大切なものを見失います。そして更にまだ見ぬ未来を求め目に見えない幸福を追い求めます。高い場所に有る幻想の憧れを藻掻きながら掴もうとする足元で、本当に大切な物を踏みにじっているかもしれません。そしてその大切な物を失った時、人は己の愚かさに気付くことが出来るのです。その誤ちから得る事の出来るものが他でもなく浄土までの道標なのではないかと思うのです。そしてここがまた重要な点ですが、この道標を拾うことが出来るのはこの地「穢土」だけなのです。「紅蓮は目を醒ます」の歌詞を見てみましょう。

”泥から生まれて 泥に住み
泥を喰ろうて 生きていく
誰が悪いじゃないけれど 私はここにいる
誰も見ない真夜中に 紅蓮は目を醒ます”

そうこの暗い水の底というように蓮の根に例えて表現されていますが、私達の住む穢土が泥の中だとすれば私達はそのけがれ、泥を食らってしか生きていけません。それは誰が悪いわけでもなくそうでしか無いのです。私達はそこで生きています。変えようのない事実なのです。そしてその泥を食らって咲くのが美しい蓮の花ということも紛れもない事実です。

 しかしその道標を拾うことは容易では有りません。そのたびに悲しみ嘆き、苦しみ、藻掻かなくてはなりません。そんな時、今晩屋がやって来てあなたを仮初のひと夜に誘うかもしれません。それを買う選択も私達には与えられているのです。対価として昼を与えなくてはなりませんが…それでもまた輪廻の輪に戻されもう一度、次の生を与えてくれるのです。この私達に三毒という試練を与え時に生を奪い時に生を与える物こそ月では無いかと私は思うのです。そして今晩屋とは月の使者ではないのかとも私は思うのです。「夜いらんかいね」を歌った後、法被を脱ぎ白装束に成った姿がそれを表しているのでないかと考えました。最後に「夜いらんかいね」を戒めるように歌い、そこに夜を求める物がいなく成った時、今晩屋は役割を終え法被を脱いだのでないかと思いました。そして月は常に私達を見守っています。「天鏡」という言葉も実は月そのものでないかと私は思っています。または、己の中に有る心を移す鏡、己を見る為の鏡なのではないかとも考えます。大切なものが何なのかは何時も己の心が知っている。しかしそれに私達は気付くことの出来ない愚かな存在なのです。それはもうそうゆう定めなのでしょう。そしてその鏡を外に求め彷徨い苦しむ。その鏡が移すものが己自身で有ることを知らずに。そしてこの天鏡は六道輪廻図とも関係が有るのでないかと考えています。六道輪廻図では十二個の因縁(前世より引き継いだもの)が円を描く様に並び、さらにその中心には三毒の円が有ります。この六道輪廻図が瞳でないかと私は思うのです。この瞳が苦しみから齎される気付きで湛えられた時、月の導きによって赦され河を渡ることが出来るのでは無いかと考えます。この時に赦しを与えてくれるのは月そのものなのでしょう。私達には罪を裁く力も赦す力も、ましてや無かった事にしようと拭う力など無いのです。私達に出来ることは己の罪に気付く事以外には何もないのです。思い上がってはいけないのです。人より弱い者は有りません。この夜会その物がそこに気付かせてくれる今晩屋そのものでないかと私は思います。

おわり

2020年6月 ピコピコぱんだ

用語のまとめ

【月の都】浄土、生死を超越した清らかな世界、夜のない眩き世界

【月の力】人を惹き付ける力、人を惑わす力、人を導く力
水中の魚が空を飛ぶ鳥を見るようなもので、私達も手に出来るはずのない何かを追い求め彷徨い苦しむ。それを手にすることがこの一生の意味だと思ったり、それさえ手にすることが出来れば幸せになれると信じ、叶うことのない欲を追い求める。その結果が都へ通じる道標。
この一生だけで月の影響を考えると月は悪に見えるでしょう。しかし私達の輪廻する魂を都へ導こうとしているのもまた月なのです。

【彼岸】彼の岸、死の世界

【此岸】此の岸、生の世界

【十字路】幽霊交差点、名残の化身、魂が名残の有る他社の魂と交差できる場所
・幽霊交差点「角を曲がってしばらく行けば もとの景色が有るのに気付く」
「逃げた後ろに置き去りの眺め 進む行く手に待つのが見える」

【十文字】罪人の印、私達が前世、前前世から受け継いだ罪、魂に刻まれている罪の印
私達はもとより全員が罪人、罪の無い者など居ない。
・十文字「自分は悪くないと述べる 誰も彼もが同じく述べる 」
「自分に罪はないと述べる 誰も彼もが同じく述べる」
「今居る陸は 掌の上 その掌に焼き付いている」
「その掌に焼きついている その十文字はなんだ」

【縁切り寺】駆け込み寺、骨肉と共に記憶を消し去り来生へ繋ぐ場所、自分の足で駆け込まなくてはならない、記憶は消えても魂の罪は消えない、十文字は消えてない
・ちゃらちゃら
縁のない者に なりたい人は 罪のない者に なりたい人は
駆け込んで来られ 逃げ込んで来られ 縁切りの寺は 身の上をちゃらにしよ
・台詞「寺へ逃げ込みその先は 忘れの衣を身に纏い」
「名前も変えて姿も変えて 都へ逃げよ疾う逃げよ」
・都の灯り「裏切って 見限って 骨肉分けた人を捨て」「明日のために今日を捨て」

【忘れの衣】かぐや姫に登場した衣と同じように記憶を消してしまうアイテム
・都の灯り「振り捨てて 脱ぎ捨てて 忘れの衣を身に纏い」
「急かされて 煽られて 眩きものに身を任せ」※眩きものとは月の力が齎す定め

【逃げる】苦しみから逃れようとすること。大切なものを捨て置きまだ見ぬ未来を求める。誓いを捨ててこの世を手放し身投げする行為。何れにしても根音的な苦しみの根源を解消していないためその因縁により輪廻しても同じ苦しみを受け続ける縁切り寺に身を隠しても、身投げして命を捨ててもそのひと夜は仮初に過ぎず、輪廻を引き起こし苦が終わることがない。

【赦され河】彼岸に有る河、幽霊交差点から赦され河に行けると考えられる、月の都へ通じる河
魂の罪を赦された時、渡ることが出来る、己の力では渡れない、私達は自分の罪も他人の罪も裁いたり赦すことは出来ない、私達は赦される時が来るのを待つしか無い

【天鏡】
2つの意味を持つワードであると考えています
・月(月の力)
人が魅せられ追い求めるもの、心を狂わす根源。追い求めても絶対に触れることの叶わぬもの
人を魅了し惹き付ける力、幻想を見せる力、この力によって人は争い苦しみを味わう
・涙を湛えた瞳
天から私達を見ている瞳、涙を湛えた瞳
※湛えるとは液体が満ちること。ここでは涙を満たした瞳と解釈
六道輪廻図とも結びつけ解釈をしています。中心に三毒(穢土に居る間に与えられる「無知・憎しみ・貧欲」)とそれを囲う十二因縁、十二縁起(前世より引き継ぎつづている物)
※実際には同じ存在であると思っています。苦しみを与える存在であり救いをもたらす存在です。

【砕け散る道標】
月の魅せる幻想を追い求めた人間が、戦を起こし心を捨て、大切なものを失い、己の愚かさ、誤ちに気付く。この過程を追ってでなくては得ることの出来ない気付きがこの”砕け散った道標”ではないかと思います。大切なポイントはこの過程を追わなくては人が気付きを得ることの出来ない哀れな存在だということです。私達はだれしも最初からそれに気付くことが出来るような”賢きお方”ではないのです。

【三毒】貪・瞋・癡
・貧「必要以上に求む心、欲」
・瞋「怒り、憎しみ」
・癡「無知、愚か」
三毒とは人間の苦しみの根源、この三毒故に人は苦しむことを与えられている
仏教ではこの三毒を打ち消さなくてはいけないとなっているようです。しかし今回は三毒がもたらす苦しみ、そこからの気付きによって浄土へ迎えられるので無いかと考え解釈を進めています。またこの三毒故に輪廻から逃れられないというのが一般的のようですがこちらも三毒が有るおかげで気づきを得ることが出来、輪廻から開放されると解釈しています。
私達が輪廻から開放されるために月から与えられたものだと考えています。

【穢土】
罪人・凡夫の居る世界、煩悩(三毒)に囚われて迷いから抜け出すことの出来ない者の世界
穢れた地、水の底、泥の中、けがれた地でありながら気付きを得ることの出来る唯一の場所、紅蓮を咲かせることの出来る場所

【夜】除夜の事。物事の境を表す言葉。煩悩、苦を消すことが出来るとされるひと夜の事。しかしそれは仮初であり、魂の罪を消すことは出来ない。

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