思い出の場所がかわっていくさみしさよ
京都にある人間座スタジオ、12月いっぱいで劇場としての貸し出しを終了されるそう。昨日(12/12)の京都新聞に書いてあった。HPには一旦中止、とだけ記載されている。
演劇をやるのは好きだけど、足しげく観に行くかと問われれば、行かない。自主的に探していくことはめったにない。演劇の魔力に飲まれてしまった友人や先輩に「観に来て!」って言われたときにはいったけど、それだって数えるほどだ。だから客として人間座に行ったのは2回くらい。自分が使ったことも少ない。けど、私だってそれなりにさみしい。なんとなくさみしいのだ。別になくなるわけでもないのに。
たった3年間の短い演劇人生(というのもおこがましいレベルだが)で、最初に公演に参加したのがここ。小屋入りもレベチェも場当たりきっかけもゲネもすべて初めては人間座スタジオ。演出やって「こりゃ難しい」ってなったのも小道具が多すぎてキレてるチーフをみたのもスケジュールガタガタでイライラしている先輩をみたのもここ。
小屋入り期間なのになぜかエキストラのバイトを入れた先輩に舌を巻いたのも、友人が作ったおにぎりを食べたのも、打ち上げのピザが秒速でなくなることを知ったのもここ。
まだまだ出てくる。掘れば掘るほど出てくる。対して使わせてもらってないのに。まあ、小屋入り期間は朝から晩までが一週間以上続いたりするから密度としては濃い。だから仕方ない。浸る思い出が無限に出てくるのは当たり前かもしれない。
思い出が詰まっている場所がなくなったり、変わったりするとさみしい。
好きだったお店がつぶれていたり、ジャスコがイオンになったり、駅前がめちゃくちゃきれいになったりすると、何かに横っ面をしばかれたみたいになる。ここにはもうないぞ!って言われている気がする。実際、思い出は単なる「過ぎた時間」なので探してもない。自分の中にしかない。
こういうことは、年をとるにつれてどんどん増える見込みである。
そして「懐かしかったね」と笑いあえる友だちばかりでもない。蓋をあけてみれば、私ばっかりが懐かしんでいることだってある。「そんなことあったっけ?」と笑われておしまい、の瞬間は、けっこうさみしい。いや、だいぶさみしい。心にくる。つらい。
友だちに「そんなことあったけ?」って言われても、私がおぼえているのでそれは間違いなくあった。
あった。あったったらあった。
ちなみに次に思い出がミチミチに詰まってるのがかの有名な吉田寮食堂なんだが、こっちもそろそろやばいのかもしれない。知らんけど。