「私が死ななくてよかったな」ってホントは言ってやりたいのよ
自分をブタと呼ぶ替え歌をクラスメイト全員の前で披露されて、変なあだ名をつけられて、家の鍵を取られて帰宅の足止めをされて、毎日のように膝蹴りをされていたとしたら。それは果たしていじめになるんでしょうか?
当時、小学校6年生だった私は、それを「いじめ」だと思っていなくて、ただ「タチの悪いノリ」だと理解していた。泣くこともなかったし、不登校にもならなかった。ブタさんと呼ばれることは嫌だったけど、実際私は少々肉付きのよい部類だったから、まあ仕方ないかと思いもした。ブタのかわいいキャラクターが世に出てきたころだったから、最終的に「ブタキャラ」みたいな位置づけになったから、結果オーライと言えばそう。
もちろん、許せることばかりではないし、嫌だったこともたくさんあった。持ち物にうんこの落書きされたり、買ったばかりのキャラクターのキーホルダーにでっかい鼻の穴開けられたり(鼻の穴があるだけで100倍ブスになった)。かといって「嫌だ」と言えば「ノリが悪い」と言われるし、逆に言えば「いじられキャラ」に甘んじていれば安泰でもあった。友人ひとりのいじりがキツイだけで、それ以外の友達は普通だったからだ。ひとりさえやり過ごせば、それ以外は楽しいかった。実際、6年生のときに楽しかった思い出はたくさんある。
それでも、その光景は端から見れば「いじめ」に近いものだったらしく、担任の先生から真剣に「大丈夫なのか」と聞かれたことがある。「まあ、彼女も遊んでるつもりなんですよ」みたいな感じで「大丈夫です」とかなんとか言った。
今でも「彼女はストレスのはけ口が欲しかったんだろう」と思っている。中学受験が近かったし、親も厳しかったし、習い事も塾もたくさん言っていた。「私がはけ口になる必要はない」とわかりそうなものだけど、変に達観していたのかすでに諦めていたのか、「まあいいか」と許容していた。その中にはどこか相手を下に見る気持ちがあったのかもしれない。「こんなことをするなんて、かわいそうだ」と。
卒業して、彼女とは疎遠になった。それ以降はだれも私をいじらなかった。いじめっていうのは、ひとりの首謀者からエスカレートするんだなとしみじみ思う。
さて、これは果たしていじめだったのか?
「いじめだ」と思う人もいれば「本人が不登校にもなってないから違う」と思う人もいるかもしれない。けどまあ、正直どっちでもいい。いじめだろうがいじめじゃなかろうが、どっちでもいい。
私は彼女のことを許すつもりが毛頭ないのだ。その事実があるから、いじめだったか否か?なんてどうでもよい。あの時はごめんね、と言われても、表面上は「気にしてないよ」というだろうけど、心のなかでは許す気なんてさらさらない。当時、どんなに割り切って「いじられキャラ」に甘んじていたとしても、今思えばあまりにも理不尽なことをされていたから。それをなかったことにはできないし、なんなら「私が死ななくてよかったな」と言ってやりたいくらい。中学に入ったあたりから自己肯定感が下がったから、されてた時期が時期なら余裕で自殺してたと思う。
許せないことはあってもいい。どんなに言葉を尽くされたって、されたことが消えるわけではないのだ。
小学校の終わりの会で「〇〇君に嫌なことをされました、謝ってください」ってコーナーがあったけど、正直アレもよくないと思っている。
謝罪を要求することが、ではない。謝罪を要求する場はあってもいい。けど、そのあと謝罪された側が「いいよ、これからはもうしないでね」というまでがテンプレだった。少なくとも出身校では。
謝られたら許さないといけない、って、ここから刷り込まれてる気がする。
別に「いいよ」なんて言わなくていい。本当に相手を許す気があるなら「いいよ」と言えばいいけど、ほんとは「いいよ」と言いたくないときだってあるはずだ。
許しは謝罪についてくるオマケではないし、自動返信機能でポンと返せるお手軽なものではない。
人を許すことは義務じゃない。許せない人がいたっていい。
いつか本当に許せるな、と思う日がくるまで、そのままだっていいはずだ。
と、なぜ急にこんなことを書いているかと言えば、映画『神と共に』を観たからだ。家族と贖罪のストーリーだった。本当に良い映画だったので、未視聴の方はぜひ。
彼女はどこかの地獄で裁判に立たされるのかしら、と、少し思うなどしている。