人生をツアー旅行に例えるならば
わたしにとって結婚は、バナナボート体験みたいなものだ。
バナナボート、乗りますか?ツアーのオプションで選べますよ、みたいな。
乗りたければ乗ればいい。いらなければホテルで寝てるアレ。
人生という名前の旅行。病院で産声をあげてからがスタート。
極端な話、生まれることと死ぬこと以外はオプションみたいなものだが、親の庇護のもと生きているうちは親が決めてくれている。学校とか。住むところとか。大学は自分で決めるけど。
令和も2年目が終わろうとしているこのご時世、「親が決めたことだから」と望まない相手と添い遂げるを強いられる世でもない。結婚なんてしても、しなくてもどっちでもいい。あたりまえのようにそう思っていたし、みんなもそうだと思っていた。
そうではない、とはっきり肌で感じたのは社会に出てから。
「魚目さんも、いつかは結婚するんだから」
その時の気持ちは「なんだか変だぞ」。そのあとふつふつと「なんで勝手に決めてんねん」の気持ちが沸き上がってきた。すでに本部長との面談は終わって、私は行き場のないもやもやを持て余していた。なんで勝手に「すること」にされてるんだ。こっちは結婚するかどうかなんて全く決めてないし、しなくてもいいのに。
セクハラには敏感な会社だった。酒の席でも本部長は不用意な発言はしなかったし、部署全体も「若手の取り扱いは慎重に」みたいな、そこだけはやらかさないようにしよう、といった空気があった。その本部長があたりまえのように、まったく悪びれる風もなく言った。つまり、そういうことなのだ。世間一般では結婚とは、選択してあたりまえのものなのだ。魚目さんもご飯食べるんだから、みたいな。
2年ほど前の、社会人ビギナーで成熟していなかった私はカチンとしてしまったけど、今思えば齟齬が生じてもしかたないことだ。彼の生きた世代では26歳未婚の女性は売れ残りのクリスマスケーキなのだ。そんな揶揄がまかり通る程度には「結婚はしてあたりまえ」のものだった。
本部長からしてみれば、結婚はツアー旅程の一部である。
一方で私はと言えば、前述したとおりオプション程度にしか考えてない。
生きてる時代が違えば、価値観は変わる。そりゃそうだ。
結婚への考え方が変わりつつある世ではあるが、いまでも結婚をしない人間は少数派だと思う。25歳を超えて、友人もセンパイも結婚したいといいまくる。年々ご祝儀代を包む回数も増え、とうとう今年は出産祝いが出た。そのたびに自分の年齢を思い出し、ここまで来たかと感慨に浸る。
彼氏がいないと焦る友人を尻目に、私は5年前、10年前と変わらないままだ。彼氏が欲しいとも思わず、子どもが欲しいとも思わず、結婚を夢想することもなく。ただ、自分のしたいことを自分がしたいようにして、毎日を生きている。
「結婚はみんなにとって当たり前じゃありません!わかってください!」なんて言いたいわけではない。強いられてるわけでもないし「結婚しないの?」と聞いてくる人には「するつもりはないでーす」って言っておけばいい。周りがどういおうと、自分の人生は自分のものだ。
他人からの評価ってそんなに大事か?
ただ、「結婚はオプションだぜ」って意識がどうしてあまり流通しないのかしら?とはほんのり疑問ではある。そうすれば、初手「結婚しないの?」は会話から立ち消えると思うのだが。
したい人はガンガンに結婚相談所なりマッチングアプリなりで経済を回していただきたい所存である。私はいまのところ、少子化に拍車をかける小さな一因になっているので。