多様性を認めないのも多様性なのでは?
どうもイジワルです。ひとりごとの延長というか今日は愚痴です。
最近、多様性多様性と色々耳に入る回数が増えているような気がしています。
どうでもいいなぁと思って見ていますが、私もたまに押し付けられたりするとイラっとします。
そう思っていたら、多様性を認めてほしい人は、多様性を認めたくない人のことを認めずに望んでいるんじゃないかってことです。
多様性を認めるのも多様性だけど、多様性を認めないのも多様性。
最近は、認めたくない側の人を排除して、認めてほしい人に甘くするのを多様性とパッケージングしているだけにも思います。
ルールに対してモラル、マナーなどのグレーなことまでルール化する最近の流れにはなかなか疑問を感じています。
多様性を認めるために多様性からはかけ離れたギチギチにルールを決めるみたいな謎現象な気がします。
みんなで「どうでもいい」って気にしないように思うってのが本当の多様性のあり方なのかなぁって思います。
でもなんとなくそれじゃ寂しいというか、実は今までのルールの中で自由を楽しむ方がラクだったんじゃないかともなんとなく感じてたり感じてなかったりします。
一人暮らしはいつ飯を食ってもいい自由だけど、実は19時に固定だけどお母さんが飯は作ってくれるみたいな。
みんなでいっせーので優しくおおらかになれるのが本当の多様性なんじゃないかなぁってぼんやり思うんですよね。
そんなことができないから争いは無くならないんだろうなとも思いますけれども。
今日は睡眠不足で文が読みにくかったかもしれないです笑
ではまた
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