ひねくれ坊
ときどき、友人や親に、ひねくれ者といわれることがあるのですが、
ひねくれ者とはいったい何ぞや、人をひねくれ者扱いするのはなんでや
とおもったわけです。
何をもってしてひねくれ者なのか。
調べてみると、性格が歪んでいる人、だとか。私は性格が歪んでいるのか?
正直に素直に生きてきたつもりだが、ちがっていたのか。
歪んでいる人とはどのような人のことなのか。
「歪み」というのは、外から力を加えた時の形状や体積の変化、らしい。
人が歪む、性格が歪む?というのをもともとある性格が外から何かしらの力で歪まされた、という風に考える。
そもそも、性格だか人格だかは、自分の力と外の力が入り混じってできるものだろう。いろんなことを経験したり感情を知ったり…そんなことが形成していくんだろう。
だったら、みんなひねくれてるじゃないか。
もっと、単純に、性格が歪んだ人というのは、人に害を与えることで快楽を得たり…そんな人のことを刺すとしよう。
それでも私はひねくれ者ではない。
友人や親が私のどこをどう見てひねくれ者扱いするのか、見当もつかないのでした。
人をひねくれ者としてみるろう。
ひねくれ者というのはカテゴリーであり、そこの人を当てはめたがる、入れたがる。
なぜか、
自分とは別のものとしてみることで、自分は正常だと思いたいのだろうか
「私はあなたのことが理解できません」ということを、簡単に、やんわりと伝えているのだろうか。
なんにせよ、自分とは違うカテゴリーである、または同じということを感じておられるような気がする。
いやいや、呆れているのかも。
なんでもいいが、とにかく、私はひねくれてはいないということです。
なんとなく、授業で使ったツユクサの写真を入れてみる。