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こんなところに居たよ、ありがとう



ライナーノーツを書く。
と考えると、間違うのが怖くて何も書けなくなりそうなので…これはライナーノーツというより、いちファンの個人的な感想であり、作品と作者への尊敬と感謝を伝える手紙として書けたら…と思っています。


2024年12月3日、予約していたクリープハイプのニューアルバム『こんなところに居たのかやっと見つけたよ』が届いた。美しい黄色い箱を傷つけないように、私はドキドキしながらおそるおそる、フィルムを剥がした。


①ままごと

イントロなしでいきなり飛び込んできた尾崎さんの声。最初からクリープハイプ全開の音を浴びせかけられて、緊張と喜びで全身が弾けそうになった。

───ズルくて ぬるくて だらしない人
初めて聴いたとき、頭の中に“だめな男”と“めんどくさい女”を描いた小説『犬も食わない』が浮かんだ。だらしない彼に怒りながらも憎みきれない彼女。
それから、『本当なんてぶっ飛ばしてよ』の2人も。怒られてるタイミングで茶化すからまた怒らせて、いつもごめんねってなんで言えないのって言われてしまう。
そんな2人のやりとりが、この曲の中にも見える気がする。喧嘩もするけど、腹の立つことも多いけど、だけど好き。
───馬鹿だね 思わず 笑っちゃう人
私は、この曲を聴くとかわいくて愛しい気持ちになる。この2人に、幸せになってほしいなあ…って思ってしまう。

②人と人と人と人

この曲は成り立ちが特殊だ。まず大阪ステーションシティとFM802との企画で、歌が入っていないインストの状態でラジオでオンエアされた。それを聴いて浮かんだイメージをリスナーから募集して、集まった言葉たちをもとに尾崎さんが歌詞を書いて完成した曲。
私も拙いメッセージを送った。
遠い所からだけど、かする程度だけど、曲を作る過程に触れられて嬉しい。
とはいえ完成した曲を聴いたら想像を遥かに超えたスピード感と高揚感があって、やっぱりこれは、クリープハイプの曲でしかないと思い直した。でも、メッセージを送ったみんなの言葉は一度自分の中に入っていると尾崎さんはラジオで語ってくれた。もうそれだけで十分過ぎる。

この曲を聴いていたら「なんかこの曲好きなんだよね〜」と息子が言いだした。自分の好きな曲を、自分の家族が理屈抜きで「好き」と言ってくれるのが嬉しい。

③青梅

───恋は幻 赤いうめぼし ふたりで酸っぱい顔してる
軽やかなメロディーに乗せて歌われる「うめぼし」の4文字。
クリープハイプの歌詞に時折出てくる、生活感を纏った単語(石鹸とか、リンスとか…)が好き。
そして「うめぼし」からもかなり生活感を感じるけれど、今回のはちょっと違う。生活を浮かび上がらせる描写としてのうめぼしじゃなくて、恋心の比喩表現として登場するうめぼし。意外な言葉選びにびっくりしたけど、また新しい角度でクリープハイプの魅力を見せられた気がする。

───出会ってる?ねぇ「私たち」で合ってる?
マッチングアプリのCMソングだからこそ、「であってる」が掛かっているこの言葉遊びが、より粋だなと思う。

───「たとえようのないこの胸の痛み」だとか たとえるそんなズルさで
サラッと歌われるこのフレーズに、ふと相手は自分ほどは本気じゃないのかなと感じるときの、あの胸の痛みを思い出した。

④生レバ

2024年11月16日、Kアリーナ横浜で行われたクリープハイプ現メンバー15周年記念公演で、初めてこの曲を聴いた。炎が吹き上がるステージに釘付けになった。あの時は自分の脳内情報処理が破綻して歌詞をひとつも聴き取れなかった。ただ、痺れるようなかっこよさに酔った。

───ダフ屋になって誰かの利益で楽して生きてたい
誰かの利益を掠め取って行くダフ屋、今で言う転売ヤーへの痛烈な皮肉をストレートに歌ってくれて、聴くたびニヤリとしてしまう。
繰り返される「生レバ食べたい」はタラレバの言葉遊びで、本当に生のレバーが食べたいわけじゃないんだろう。だけどレバーから連想される生々しい感じ、内臓ならではのヌルッと感が曲の不穏な空気を増幅させるのが凄い。それでいてクセになる聴き心地だし、音楽としてただただかっこいい。サビに入る時の、あのドラムのドン!!という響きには、いつ聴いてもゾクゾクさせられる。

⑤I

2023年8月7日。私は夜行バスと電車を乗り継いで、福島県の夜ノ森駅へ辿り着いた。
よく晴れた日で、降り立った駅の周りには何もなくて、自動販売機はとっくの昔に壊れていたみたいで動いておらず、夜ノ森公園へ続く道路には背の高い雑草がどこまでも生い茂っていた。まだまだ人の生活が戻ったとは感じられないこの街で、尾崎さんの弾き語りと柳美里さんの朗読を聴いた。澄み切った、美しい時間だった。
この日の5曲目が『I』だった。聴けると思っていなかった大好きな曲『どうせ、愛だ』が始まって衝撃を受けた、と思ったらそれどころか知らないフレーズが続いた。
───好きで好きで好きで好きで/一秒でいいから会いたい
何が起きたのか分からなかった。ただただ引き込まれて、身動きが取れず息をするのも忘れそうだった。
その曲が、『どうせ、愛だ』を新しく解釈して作られた『I』だったと後に知った。
忘れられないあの日の夜ノ森公園の景色とか、吹いてくる風の気配の記憶が、そのまま私にとってこの曲を彩る要素の1つとして切り離せないものになった。

⑥インタビュー

アスリートの“挫折地点”にスポットを当てて話を聞くドキュメンタリー番組「NumberTV」のテーマソング。
───燃え尽きて 消え尽きたのにでもまだある/ダサいから隠すけど 君にだけバレたい/汗でも涙でもべつにどっちでもいいから/それより そんなことより この何かが何か知りたい
初めて聴いた時、サビのメロディが美しくて気付いたら涙が出ていた。大きなうねりに取り込まれるような心地よさがあった。
そして、何も美化しない真摯な歌詞に心が鷲掴みにされた。これはアスリートへの尊敬があるからこそ、そして尾崎さん自身もインタビューされる機会の多い立場だからこそ書かれた言葉だと思う。

スペースシャワーTVの歌詞解説番組で、尾崎さんはこの曲の解説の際に「自分のために」「自分が聴きたい曲を作っている」と語っていた。「今求められているのはこういうものだろう」なんて狙って作られる曲より、アーティスト自身が聴きたくて作った曲のほうが、信頼できるし、聴けて嬉しいと思う。
そして、「君にだけは知っていてほしい」じゃなく「君にだけバレたい」という歌詞の言葉が、最高にグッと来る。バレることって恥ずかしい。それでも君にだけはバレたい、ほんとの何かを見せたい。

⑦べつに有名人でもないのに

主人公は世の中全体から見るとべつに有名人でもないけど、ちょっとしたインフルエンサーではあるのだろうか、などと想像してみる。そうでなくても、べつに有名人でもないのに恋人との生活をSNSに載せる人も多いし。
さらにSNSが当たり前になった今、べつに有名人でもないのに誰かに叩かれたりするし、誰もが誰かを叩いたりすることへのハードルはとても低いと感じるし、そんな世の中にモヤモヤとする気持ちはここ数年ずっとある…。

───好きな人に好きと言って 好きな人と好きにしてた
サビで繰り返し出てくる「好き」の連なりになんだか胸が締め付けられる。
べつに有名人でもないのに、そもそも実在の人物でもないのに、主人公に必要以上に感情移入してしまう。切なくなってしまう。歌声も、ピアノの音色も、ほんのり甘くて優しくて哀しくて、気持ちがズルズルと持って行かれてしまう。この曲がとてもとても好きだ。

⑧星にでも願ってろ

───あの娘が幸せで居ますように/でも孤独に寝てますように
自分の想い人には幸せでいてほしい。でも、その相手が自分ではないことは耐え難い。人間の本質を突いた正直で赤裸々な歌詞にドキッとする。
タイトルにもなっている「星にでも願ってろ」というやや投げやりにも思えるフレーズに親しみを感じるし、ああでもこの想いは恐らく成就することは無いのだろうな…と漠然と理解してギュッとなる。

この曲に限ったことではないけど、カオナシさんの曲は言語的にもメロディー的にも独特の艷やかさがある。そしてカオナシさんのボーカルと尾崎さんのコーラスが重なるのがなんとも言えず魅力的で、曲の中で尾崎さんの声を見つけた時の耳の快感は他のどこにもない特別な気持ちにしてくれる。

⑨dmrks

“黙れカス”を意味するネットスラングがタイトルのこの曲。…と言うことはもしかしてこれもカオナシさんの曲かな?なんてアルバムを聴くまでは思ったりしたけど、尾崎さんの曲でした。
尾崎さん、また、エゴサーチをしたんですね。
それにしても、理不尽な言葉を見つけて憤った経験さえも、こんな表現にして昇華してしまうなんて…。
繰り返すフレーズが軽やかでクセになる。こんなにも聴き心地が良い曲なのに、やっぱり言ってる、きっぱりハッキリ「黙れカス」と。
ずいぶん攻撃性の高い言葉なのに、まるでその意味と切り離されたかのように音として心地良く耳に入って来るから不思議だ。そして言葉の意味に意識が追いついたとき、痛快さを感じてしまう。

⑩喉仏

この曲のMVがとても好きだ。
ライブハウスで演奏するクリープハイプ、熱狂するオーディエンス、その中にポツンと1人、真顔で微動だにしない女性。彼女を喜ばせようとあの手この手で頑張るメンバーの姿が笑いを誘うけれど、彼女は最後まで表情を変えない。
だけど、ライブがつまらないとか彼女が冷めているとかいう事とは違う気がする。彼女はまっすぐ見つめるステージから一切目をそらさない。

言葉を飲み込んだとき、喉仏が動く…というお話をこの曲がリリースされたときの尾崎さんのインタビューで聴いて、喋るときだけでなく喋らない時にも喉仏は動くのだというのは目からウロコだった。

ライブを見に行って、手を上げない人。
何かを思ったとき、けれどそれを口に出さない人。
人の行動には意味があるけど、しない行動にも意味があるかもしれないと気付かされた。

⑪本屋の

日常の中に流れる時間、本屋での静かな光景が目に浮かぶ。何が起きるわけでもないけれどこんなにも心惹かれるのはどうしてだろう。畳み掛けるようなどこか切実さを帯びたメロディーに胸がギュッとなる。
本に印刷された「あの文字の感触」というのはは現実には触れても分からないものだけど、それを感じられる気がするのは読む側が本というものに心を寄せているからではないだろうか。
散々迷って結局何も買わずに帰る経験は自分にも心当たりがあって、決められなかったけれど本を見て迷う時間そのものが楽しくて好きだ。あらかじめ調べて目当ての売り場に直行し、目当ての本をサッと手に取って…という買い方も良いけれど、敢えて何も調べず、あてもなく歩き回る本屋の楽しさ。そして決められず迷いに迷ってへとへとに疲れ果てて何も買わずに帰るのもまた良い。また来よう、次こそは何か買おう…と思う。

曲の最初に354と355の間に挟んだ指は曲の終盤356と357の間に挟まれて、ほんの少しこの本は読み進められていた。

⑫センチメンタルママ

この曲は尾崎さんがコロナに感染して、その症状に苦しんだ経験から生まれたらしい。仮タイトルは「風邪」だったとか。
体調が最悪なときの、あのもう何もしたくない何もかもどうでも良い、考えるのも面倒だと感じる気持ちがそのまま詰まっていて、ちょうどインフルエンザに感染した私は妙な納得感を持ってこの曲を聴いた。

…嘘です。
正確には、聴いてない。あの時は音楽を聴く気力が無かった。でも思い出していた。熱でぐったりしながら、脳内ではずっとグルグルとこの曲が流れ続けていた。
───パッとまとめて消えてくれ何も見たくない
───だけどこの体で/死にそうなほど今を生きてる

ずっとこの曲に共感していた。

⑬もうおしまいだよさようなら

タイトルを見て、どんなに絶望的な曲なんだろうと不安な気持ちもあったけれど、聴いてみたら全然違った。
オールナイトニッポンPODCAST「トム・ブラウンのニッポン放送圧縮計画」のエンディングテーマとして書き下ろされたこの曲で歌われる「おしまい」とは番組のエンディングのことを言っていたのだった。
ちょっぴり昭和の歌謡曲みたいな、どこか懐かしさを抱かせるメロディが、クリープハイプというバンドを通して演奏されることで生まれるこの感じ。一口に説明できないこの空気が、とても好きだ。

───寂しくなったらまたおいで
この言葉が温かくて嬉しくて、幸せだと思った。

───たった一駅分の優しさで/愛せてるとでも思ってた?/全然歩ける距離が恥ずかしい/そっと引き返す2番線
誰かにちょっとばかり優しくして、相手はこちらが思っているほど感謝してないかもしれないのに「してあげた」気持ちになっていることがある。きっと自意識過剰なだけ。相手にそれがバレる訳ではなくても、自分がそのことに思い至ったとき、自分自身にバレたとき、ものすごく恥ずかしさを感じてしまう。
だけど私はクリープハイプの曲に時々出てくる「恥ずかしい」が好きだ。クリープハイプが「恥ずかしい」と言ってくれるから、自分のことを情けなく恥ずかしく思う瞬間も、腑に落ちるし受け入れられる。

⑭あと5秒

クリープハイプならではの、モチーフがハッキリと設定された曲。YouTubeを再生する時に出てくる、あの鬱陶しい広告。本編だと思っていた恋は、相手にとっては5秒だけ我慢してあとはスキップする、広告くらいのものだった。こっちは嬉しくてスキップしてたのに…。
相手との関係のままならなさ、選ばれない切なさ、つぶれてしまいそうな苦しさ…そんな感情が切実なサビのメロディーでいっそう引き立つ気がする。

ところで最近の曲はイントロが短いという話をよく聞くけれど、この曲はイントロが30秒以上ある。イントロも間奏もじっくり堪能できるのがなんだか贅沢で、嬉しい。

⑮天の声

『天の声』を初めて聴いたのは2024年5月26日、上野水上音楽堂で行われた「尾崎世界観の日」だった。
ごく個人的な話だけど、その2年前の8月に同じ上野水上音楽堂で行われた「尾崎世界観の日」はチケットが取れなかった。ファンクラブ先行、オフィシャル先行、あらゆる抽選に落ち続け、一般発売もリセールもダメで、落ちるたびにものすごくショックを受けた。機械的な抽選だと頭では分かっているのに、クリープハイプに尾崎さんに拒絶されているみたいな感覚を持ってしまった。泣きたいのに家の中に泣ける場所が無い。お風呂場で隠れて泣いていたらたまたまやってきた家族に泣いているところを見られて気まずい思いをした。当日はチケットが無いのにグッズだけでもと物販列に並び、リハーサルをしている尾崎さんの歌声を聴いてまた泣いた。私は中に入れないんだ…と惨めな気持ちで家に帰った。後でX(当時はまだTwitterだった)を見て、尾崎さんが「次は大きい会場でやる」というようなお話をしたらしいと知った。参加できなかった人を気遣ってくれたことが嬉しい反面、もう自分は上野で「尾崎世界観の日」を観ることはできないのだと勝手に悲観して絶望した。
けれど2年後、また上野水上音楽堂で「尾崎世界観の日」が行われることになった。今度こそどうしても行きたいのに、また抽選に落ち続けた。どうしようもなく卑屈な気持ちが膨らんでいく中、ギリギリのところで、一般発売のチケットが取れた。だから、あの日一番うしろの、隅っこの方の席が嬉しくてありがたくて、あの硬い座席に座れただけで胸がいっぱいで、ここにいることは当たり前じゃないんだと何度も思った。
あの日尾崎さんが弾き語りで歌った『天の声』は、“お茶の間に家族の団欒”、“徒歩3秒”、“曲の中でぶっ殺す”、そして繰り返す“暴露する”だけが残って、あとは脳の処理が追いつかなかった。もっと知りたいし覚えていたいのに聴いたそばから記憶がどんどんこぼれて行ってしまった。ただ、あの歌をいつかまた聴けるのだろうか、もう一度ちゃんと聴きたい…とずっと願っていた。
尾崎さんがXに歌詞を載せたとき、あの曲だってすぐに分かった。嬉しかった。そこには自分が見落としていた(聴き逃していた)大切なメッセージがあった。
───君は一人じゃないからとかそんな嘘をつくよりも/君は一人だけど 俺も一人だよって
尾崎さんがずっといろんな場所で話してくれていたことが、歌詞になっていた。ライブが終わって家に帰って一人になった時、一人を大切にできるように。一人を、孤独を肯定できるような音楽を。

そして、2024年11月16日、Kアリーナ。
『天の声』前のMCで尾崎さんが話してくれたこと。来てくれる人のためにいろいろ考えて用意するんだけれど、例えばグッズをスムーズに買えるように整理券を用意する、そうするとその抽選に漏れて文句を言う人が出てくる。私もそうだ…、ドキッとした。クリープハイプというバンドに運命的なものを感じていたはずなのに、1つ何か手に入らないだけですぐ絶望的で卑屈な気持ちになって、“運命”とか言ったって大げさだったのかな勘違いだったのかな、自分は違うのかなって考えてしまう。クリープハイプに救われていると思っていたのは、間違いだったのかな、やっぱり救ってもらえないのかな。それどころか、この世界で自分だけが弾かれていると感じてしまう。クリープハイプに嫌われてるって被害妄想に取り憑かれたりする。でも尾崎さんは「そんなお前に向けてやってるのに」と言ってくれた。
「尾崎世界観の日」だって今年はちゃんと上野に行けたくせに、2年前に行けなかったことを思い出すだけでジメジメした気持ちが鮮明に蘇って簡単に心にカビを生やす、こんなどうしようもない自分、すぐに卑屈になって、いくらでもネガティブな思考が湧いてきてグルグルと止まらなくなる自分。いい歳した大人なのに情けない自分が気持ち悪くてたまらない。
だけど、そんなお前に歌ってる、と言ってくれた。「お前」が指す先に自分がいると感じられた。
クリープハイプはいつも隣に居てくれたのに、自分が勝手に目を逸らして拗ねていじけているだけだったんだと思えた。

そして演奏された『天の声』。
───お茶の間に家族の団欒 君の部屋はそこから徒歩3秒
団欒の空間って、みんな楽しそうなのに、入れないときがある。あるいは、みんな楽しそうだけど、なんだかその輪の中に入りたくないときがある。家族に対しても友達に対しても、そういうときがある。心が閉じるときがある。そんな自分をクリープハイプは見つけてくれて、でもそこから出て来いとは言わない。元気を出せとか頑張れとか、心を開いてとか言わない。そこに居ていいから、一人でいいから、そのままでいいから。ただそこに居ることを知っているよって、俺も一人だよって言ってくれる。

この曲はファンに向けて真っ直ぐ作った曲で、自分の言葉を自分で歌っている曲なんだとインタビューで尾崎さんが話しているのを聴いて嬉しくて嬉しくて泣いた。
やっぱり、クリープハイプを好きになって良かった。
この曲を知った私は、心が躓いたとき「私には『天の声』があるから」って思うことができる。この曲に出会う前の自分よりもちょっと心強く居られる。とても大きなお守りをもらった。


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アルバム『こんなところに居たのかやっと見つけたよ』が届いた日、おそるおそる大切にCDを取り出して、私はCDプレーヤーに入れた。でもこのCDプレーヤーはキッチンに置いてあって、壁1枚隔てた向こうはマンションの共用廊下だ。結局ご近所にうるさくないように、ボリュームを控えめに再生した。
せっかくの曲たちに、CDに、プレーヤーにもなんだか申し訳ない。
時々スマホにヘッドホンを繋いで、サブスクの方で大きめの音で聴くことはあるけれど、私の生活の中で、なかなかCDを大音量で聴ける時間がない。家に一人きりになれるタイミングが訪れたら、プレーヤーごとリビングに移動して、大音量でこのアルバムを聴こう…と企んでいる。
なんで一人の時なんだ、家族みんなに聴かせれば良いのにと言われるかも知れないけど、この宝物のようなアルバムが大切すぎて、やっぱり最初から最後まで誰にも邪魔されずに、真っ直ぐ一人で浴びたいと思っている。


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改めて、クリープハイプ現体制15周年おめでとうございます。そして、アルバム『こんなところに居たのかやっと見つけたよ』発売おめでとうございます。

クリープハイプというバンドを続けてくれて、居てくれてありがとうございます。
まとまりのない文章を延々と書いてしまって恥ずかしい限りだけれど、クリープハイプに出会えたこと、好きになれたこと、クリープハイプがずっと居てくれて、続いてくれて、それが本当に幸せなんだということを、いま改めて噛み締めている人間がここにいる、と伝えられたら嬉しいです。




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#こんなところに居たのかやっと見つけたよ

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