ドゥンス・スコトゥス

主意主義

スコラ哲学の継承者
トマス・アクィナスに批判的

アクィナス:神学は思弁的学
知性で理解することのできる哲学をはじめとする学問には限界があり
そのさきの真理については信仰によってしか到達できない

スコトゥス:神学は実践的学
神学の基本的命題は理性的に論証不可能、信仰におって承認されるべき

参考:主知主義(intellectualism)と主意主義(voluntarism)、主意主義的行為理論(voluntaristic theory of action)

認識論的存在論

俗世の大学で学ばれた中世神学は
聖書の権威に依らず「信仰を括弧に入れ」
アリストテレスを代表とする学問に基づき
どこまで理性のみで信仰箇条を説明できるか
というアンセルムス以来の
アウグスティヌス主義的伝統があったが

アウグスティヌスをプラトン主義的に読解し
真理認識に信仰を前提したヘンリクスに至って
この神学伝統が崩壊の兆しを見せる

スコトゥスはこのヘンリクスを批判対象に
アンセルムス以来の伝統を固守し
神学を「信仰を括弧に入れ」た学問として成立させる
最低限の条件を再画定する立場

認識論的な厳密さの中で実在を語るために
「存在の一義性」概念に至った

トマス・アクィナスの「存在」
主にesse、存在しているものの「存在するはたらき」の概念
スコトゥスの「存在」
ens、存在している「もの」の概念

トマス:
「存在の具体的な地平」で
実在(思考対象の全て)を考察
スコトゥス:
実在を認識する人間知性の「存在に関する概念の地平」が強く前景化されている

それまで「存在」は基本的にアリストテレス範疇論における十の範疇の内部で
最高類の実体が「在る」ことと
それに依存する偶性(他の範疇)があることとが
多義的・類比的に述べられた概念だったのに対し(存在の帰一的構造)

スコトゥスはこの「存在」概念を
最高類を超えるGodと被造物に共通に
一義的に述語できる「超範疇的概念」として
ごっそり拡張した形で扱えるよう
形而上学の基盤自体を組み立て直している

そこで問題になる「存在」の内実、
Godと被造物の完全性などに関する違いは、
「形相的区別」「個別化の原理」「内的固有の様態」
といった様々な説明概念群に移すことで

実質的に「存在する可能性」の意味だけ残った
極めて普遍的で無記的な
「存在」概念が形成されている

存在の一義性

花を見て、なぜ我々は
「これは花である」と認識しているのか

人は花を見たときに
『花一般』のように普遍的な概念もセットで認識している

イデア論との違いは、その概念の置き場所
イデア論:概念はイデア界にある
ドゥンス・スコトゥス:概念は
言葉や知性の力によってもたらされる

数ある普遍的な概念の大元は
【存在】という概念
【God】も【存在】

普遍的な概念を知性で認識可能
その概念に【存在】という概念も含まれ
【存在】の中には神が含まれているため
神については知性でもって認識することができる

【存在の一義性】
【存在】という概念において
花も木も人間も神も同じように認識できる

Godを含めた、論理学的な矛盾律が
成立する以前にただ「在る」ものを
見出し難い人間が学的吟味を通じて
確かに認識しうることを証明する為の概念

次代のオッカムにおける完全な認識論に至って
中世神学の伝統に区切りがつく直前に生まれた
あえて言った「認識論的存在論」の核となる
神的存在に関するぎりぎりの実在的述定

個別経験と信仰

(11)第二に、「何であるか」と「在るかどうか」の認識の区別もまた、不要である。なぜなら求めている真理文においてわたしは単純な概念を問うているからである。その概念とは、それを主語として結合し分割する知性のはたらきが「在る」を認識する概念である。なぜなら、わたしが何らかのものについて「在るかどうか」を認識するのは、ただ、わたしがそれについて「在る」を認識する名辞があって、それについて何らかの概念をわたしがもつときに限られるからである。そして、その概念がここでは問われている。(ドゥンス・スコトゥス『存在の一義性: ヨーロッパ中世の形而上学』八木雄二訳注/知泉書館/2019年 22頁)
(16)神の認識「在るかどうか」と「何であるか」について(ゴデフリドゥスは『討論集』第7巻第11問題でヘンリクスの「在るかどうか」の区分を否認し、それは「何であるか」の認識であるだろうと言っている)注意すべきは、名によって言われる「何」は、事物であるところの「何」であり、それは「在るかどうか」を含んでいる。なぜなら『形而上学』第4巻で「その名nomenが指示しているとろのロゴスratioは定義である」から。しかしながら、名の「何かである」は、事物の「在る」よりも、また事物の「何」よりも共通的である。なぜなら、名によって示されるものは、「在る」によって示されるものより、より多くのものに一致するからである。(ドゥンス・スコトゥス『存在の一義性: ヨーロッパ中世の形而上学』八木雄二訳注/知泉書館/2019年 26頁)

ここは、あるものの名辞(言葉)を持つ時に
人間が無自覚に受け取っている、名に対応した
学知以前の素朴な単純概念「何」quidと、
学的認識としてものの本質を規定する
「何であるか」quid estに関する議論

人間認識においては感覚の直観と
知性の直観(知覚)、そして抽象化が
同時的に生起しており
自分の認識をその様式から直観か抽象か
区別する自己直観を人間は持たない、
という構図がスコトゥスにはある

これは、五感から形成された感覚表象が
能動知性による抽象化を経て可能知性に
受け取られて実在概念が生じる一連の認識過程が、
人間本性において無自覚になされる
意識にのぼらないブラックボックスである
という問題を示唆している

その一方で、確実な真理認識を
人間の自然的能力において
基礎づけるスコトゥスは

明確に概念化されない個別的な直接経験の
具体的な肌触りを持った感覚直観こそが
知性に属する真正の記憶を形成し、
学習知ではなく個人の記憶こそが
本当に「知っている」ことであると位置づける
想起論を展開している

論理における一義性と
現象における多義性が両立する形で
存在全体を貫く形而上学的基盤によって
認識経験の根源的な不安と、
被造物からGodの理解を導きうる希望、という
「理性と信仰」のぎりぎりのせめぎ合い

ペルソナ論と究極的孤絶

著書『オルディナチオ』に限って言えば
人間の個別化はいかなる普遍的原理でも
十分に説明できないとされ
「このもの性 haecceitas」などの解釈は一旦措いた説明がされている)

形相を「この形相」に、質料 ὕλη を「この質料」に
共通本性を限定して個々の人間を生じさせる
原因として何か究極のポジティブな存在が必要
であるという議論に留まっており

この謎めいた「個別化の原理」に自己の本質を
規定されながらも、それを知り得ない人間は、
自らの生きる意味や目的もまた
自然理性で知ることはできないとされる
(個別的な本質概念の自己直観がない)

こうした不安を抱えた個の問題が
一見教義的に見える
ペルソナ(三位一体のGodの位格)論においてこそ
信仰の問題と絡めて更に展開されている

「父」は人類の罪を払拭するために「子」を殺し
「子」は人類の罪を贖うために十字架で死ぬ

Godの内の三つのペルソナにおける
依存し合わない父と子のこの関係性に
ペルソナの原型があり、
これに倣って人間もまた「非依存性」という
個人の精神的自発性によってのみ
ペルソナ性を得ることができるらとされている

ここには、お互いに踏み込みえない
個人の内面で自律した「思惟の世界」を
その独自性から評価する契機があり
実のところ、ここから信仰の拒否によるペルソナ性すら
スコトゥスは認めている

知性と意志を明確に区別するスコトゥスの
枠組みから言えば、人間の意志は
Godを欲するも欲しないも自由であり、
更に言って、個人の思考世界の外にある
事実世界を欲するか否かすら自由である
と実質的に言ってしまっている

自由とはいえ、神的秩序に創造さるた
事実世界を意志が拒絶することは
人間知性の本来的欲求に背くことであり、
それは「究極的孤絶」
あるいは「現実的依存傾向の否定」
という特別の思惟として語られる

知的本性における「自発的実存のはたらき」per se exsistere を理解するとき、わたしはその場合の「自発的」per se を、偶性とは区別して言う「実体」の意味で理解することを否定する。なぜなら、ペルソナ性のためには、究極的孤絶 ultima solitudo が、すなわち、他の本性の[父、あるいは子の]ペルソナに対する現実的依存傾向の否定が要求されるからである。(第3巻第1区分第1問題)

信仰と不信仰が、最も深い思惟として
精神の顔を彫り込む力を持つことを語り、
また社会から離れ、社会から役立たずと
見なされることで初めて「個」が現実の姿を
表すことの意義を語った「個の思想」

このもの性(haecceitas)

以前の神学・哲学は
個物そのものを考える際にも
そのものではなく、その背景を考察する傾向

個物には質料と形相(アリストテレス)の要素があり
個物ではなく、その質料と形相を考察することにより
そのものを理解しようとしていた
そのもの自体ではなく、そのものが所属しているカテゴリーの特徴を見ていた

この考え方では
カテゴリーについての考察はできるが
個物そのものについての考察は疎かに

個人や個物には『〇〇一般』という普遍的な概念が備わっているだけでなく
それぞれを『その人自体』や『そのもの自体』にさせている
普遍的な性質が備わっている

この普遍的な個体性が【このもの性】

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