スピノザの哲学 メモ(随時更新)

世界にはGodという唯一の実体しか存在しない
人間の意識や事物の存在のように別の実体として見えるものは、実は実体などではなく、唯一の実体であるGodの属性或いは様態を示しているに過ぎない
デカルトの二元論を乗り越える

ドイツ観念論から見たスピノザ

ドイツ観念論の最大の特色→世界をある一つの絶対的なものの働きあるいは現われとしてみる
それは人間の精神の理想的なあり方でもある
スピノザの「God」とドイツ観念論のいう「絶対者」の類似

スピノザの「God」… 唯一の実体(世界にGod以外の実体は存在せず)
万物の内在因(それ自身のうちに根拠を有するとともに、そこからすべてのものが生起する根源)

問題点
・唯物論的な傾向
・人間の意志の自由を軽視する決定論的な色彩

世界はGodの現れ→従って善悪はなく、人間の意識による相対的な働きによるもの
全ては必然、偶然はなし、自由意志の否定(世界の動きは神の働きによって必然的に定められている)

スピノザの「God」は人格神ではない…無神論者のレッテルを貼られる
自由意志の否定…世界の出来事を物質的な法則によって説明する態度と似通ったものと批判される…唯物論者のレッテルを貼られる

論理的一元論

全体としての世界がGodという単一の実体
その部分はいずれも単独では存在しえず、全体の一部としてのみ存在する
これをラッセルは「論理的一元論」と表現

今日では誰も形而上学によって世界を説明しようとはしない
→ラッセル「今日の科学的な思考法にとっては、到底受け入れられるものではない」

存在論の重視(⇔デカルトは認識論重視)
→世界を人間の思考の随伴者としてではなく、それ自体に根拠を内有する独立した実体としてとらえなおした
西洋における存在論の潮流(パルメニデスプラトンなど)の極北

・スピノザの形而上学における三つの重要な概念

実体…その存在のために他のものを必要としないもの
 実体をこのように考えれば、それは必然的に無限
 他のものによって限定されたり、条件付けられたりしない
 無限は複数ある場合、お互いが限定し合い、無限の概念と抵触する
 →従って無限の実体は一つ。それが「God」

属性…実体の本質を構成していると人間の悟性が認めるところのもの
 我々が認めるところの思考と延長がこれにあたるが、実体の属性はそれにとどまらない
 実体の永遠性と矛盾する為、実体の本質規定は限定される
 「この二つの属性は、それ自身では無限である実体が、すべてを思考と延長の相のもとで見ようとする人間の悟性の主観的認識に現れる形態であるに過ぎない」

様態
 実体という普遍的存在が特殊化した個別的な存在形態
 個々の事物や観念は、普遍的な実体が個別化したものであり、その限りで限定された有限な存在
 我々が世界という言葉で理解しているものは、この実体の個別化した様態をさしていっている
思考と延長というこの二つの属性相互の関係…デカルト同様独立
物質的なものは物質的なものしか原因にもつことができず、精神的なものは精神的なものしか原因に持つことができない
精神が物質に作用したり、その反対に物質が精神に作用したりすることはない
しかしその両者には、平行関係と思われるものも存在する

たとえば円の観念と現実の円とは同じもの
同一の実体が、思考にあっては観念として、延長にあっては現実の円として、異なった属性のもとで現れる

演繹的説明原理

「エチカ」独特の構成:第一部の「神について」に始まり、全五部
いずれの部も、定義に始まり、公理、定理、証明の連鎖からなっている

スピノザ自身にとっては必然的な方法であった
世界とはGodという実体そのもの
その属性が我々の意識のもとに思考や延長として表れ、その特殊化したものが個別的な事物や観念としてわれわれの思考のなかにもたらされる
よってこの世界のうちには論証できないものはひとつもない
その論証の方法として、演繹的な推論に増した方法はない

スピノザのGod

スピノザにいわせれば、精神と身体とは実体とはいえない
実体とは唯一にして無二の、それ自身の中に自分の根拠を有する存在
厳密にそういえるのはGodしかない
それ以外のすべてのものは、Godに依存して存在している

人間の精神とは人間の身体の観念あるいは認識に異ならない
人間の精神も身体も、Godという実体の属性としての表れであり、
もともとひとつの実体であったものがその属性を通じて、
精神として現れたり、身体として知覚されるにすぎない

Godという実体においては、精神と身体とは融合しており、
それが人間という個別的な場において、精神としてまた身体として認識される

Godにおいてはすべての観念とすべての対象とが完全に一致している
この観念と対象の連鎖は無限に広がっており、
それを観念の面から即して捉えると無限の知的空間とでもいうべきものが存在している

我々人間が何かを知覚しているというのは、この無限の知的空間の中で生じている局所的な知覚の一部
Godは我々一人一人の動きの中に遍在している

Godに無謬性に対し、なぜ人間は誤りやすいのか
全体としてのGodが客観的であるのに対し、
その局所的な現れである人間の精神は主観性を免れない為
主観性とは制約された状態
誤謬は主観の側から見た見方であり、
Godにとってはすべては必然であり、したがって真理

善や悪についても同じことが言える
我々は自分自身から生じていることがらを善とし、
自分の外部からやってきて意のままにならないことがらを悪とする
人間にとって外的な条件と思われるものは、人間が局所的な存在であることに起因
全体としての世界には外部というものはないのであるから、したがって悪も起こる余地をもたない
Godにおいてはすべては善

Godは我々一人一人にとって外的な信仰の対象ではない
Godは我々自身の中にそのままに現れている
したがって我々自身に命を授けてくださっている
精神の最高善とはGodについての知識
最高の徳とはGodを知ること

人間観

自由意志の否定
世界のあらゆる事柄は、それを全体としてみればひとつの必然性に貫かれている
どんな出来事も偶然におきることはなく、必然の糸によってつながれている

偶然と思われるものは、個物のおかれた制約による
個物は全体を知りえないから、必然の出来事も偶然起こったように感じる
よって個々の人間が、自分の行為を自由意志に基づいて決定していると考えるのは、錯覚に過ぎない

「自分は、自分の精神の自由な決意にしたがって、何かをしゃべったり、黙っていたり、その他等々のことをしていると信じているものは、目を開けながら夢を見ているにちがいないのである」

「エチカ」第三部定理2の備考:高桑純夫訳



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