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自分原稿発掘アーカイブ vol.03

過去に担当した様々な原稿依頼の仕事から、今の視点で読み返して興味深いモノをピックアップ。

黄金のキッス(2009年)

午前6時。目覚まし時計の音が鳴り響く。
部屋の奥から眠そうな女がもそもそと起き出してて来る。髪はボサボサだ。
うつろな目でぼーっとしてしばらく鏡を見る女。おもむろに洗面台の歯ブラシを手に取り、チューブから歯磨き粉をひねり出して、再度鏡を見る。
口を開けて、歯ブラシを構えた時、女は衝撃の映像を目撃した。
「さっ、差し歯がない!!」
その瞬間、女の脳裏に昨日の出来事がフラッシュバックした。

「カンパ〜イ!」
飲み会で乾杯する自分。
からあげをつまみながらバカ笑いする自分。
トイレの前で、中学の時に好きだった河合君に優しい言葉をかけられて、甘酸っぱくなっている自分。
カラオケで山口百恵の曲を熱唱する自分。
涙ぐむ友達に笑顔で手を振りながらタクシーに乗り込む自分。

そして、いま目の前には、差し歯が抜け、かわりにまるで歯の間に“漆黒の邪眼”をたずさえているかの様な一風変わった女が立っているのだった。
女は急に思い出した様に振り返った。そこには純白の真新しいウェディングドレスが静かに置いてあった。今日は一生に一度の日なのに。

女は脳内を高速でサーチして対応策を探ってみたが、何も浮かばなかった。
血眼になってバッグをひっくり返し、昨日着ていた洋服のポケットに手を突っ込み、そこで発見したガムの包み紙を練り開いたり、風呂場のタイルにひざまずいて床をにらみつけたり、「もしや?」と思ってブーツの中までひっくり返して探してみたのだが、結局どこからも歯は見つからなかった。すっかりどこかへいってしまったのだ。


「ちょっとー。何やってるの?迎えの車来ちゃうわよ」
そうだ。あと30分で式場に向かう車が来てしまう。
落ち着いてしばらくじっと考えた後、これはもうどうにもならないと悟った女は、覚悟を決めた。そして祖母の仏壇の前に座って目を閉じ、感謝の言葉と別れの挨拶を柔らかに心の中で唱えた。
チ〜〜ン。

式場に到着した女を驚異的な忙しさが待っていた。
儀式の手順を覚え、化粧をして、ドレスを着て、来客にあいさつをする。

女はその間いっさい笑うことをしなかった。なぜなら、もしうっかり笑ってしまえば、再びあの“漆黒の邪眼”が歯の間から顔を出し、周囲の人々を恐怖と落胆のどん底にたたき落としてしまいそうだったからだ。
父親と母親が並んでこちらを見ている。姪っ子が超ハイパーテンションでこっちに走って来る。衣装の着付けオバちゃんが「ハイ!お姫様の出来上がり!」とからかう。そしてもうすでに酔っぱらっている親戚のおじさんの醜態。これらに対して女は、笑いではなく“全身全霊の笑み”で対応した。邪眼を封印してこの局面を乗り切るには、もはやそれしかなかったのだ。

一番危なかったのは、夫のタキシード姿を見た時だ。
最初、夫の事をマジで髭男爵かと思った。この時ばかりは「ぷぷぷぷぷぷ」と笑いがこみ上げてガマンできなくなってしまい、とっさに口を手で隠して大笑いした。夫も鏡を見ながら「な、スゲエだろ?」と言って大爆笑した。そして式が始まった。

賛美歌が歌われ、式典が厳かに執り行われて行く。女はその間、式に集中し、そして猛烈に感動していた。これだけの人々が自分の幸せを祝福してくれている。自分は幸せにならなくてはならない。


意外にも「誓います」の台詞は思い切り言えた。その瞬間、自分の眼前には神父しかおらず、その神父も聖書に目を落としていたため、女は十字架に向かって心置きなく「誓います!」と叫ぶ事ができたのだ。
もしかしたら、この時の小さな幸運が、女の警戒心を解いてしまったのかもしれない。事件はほどなくして起きた。

誓いのキスの時。向かい合って立った女と夫は、神父の言葉に促されるまま顔を近づけた。女は「軽くキスするだけだし、そんなに口を開く程じゃないからきっと大丈夫」とたかをくくっていた。そろそろだろうと思い、目を閉じる女。しかし、しばらく待っても夫からの誓いはやってこなかった。不思議に思って女が目を開けると、そこには、悟りを開いたかの様な、澄んだ、優しい表情を浮かべた夫が立っていた。そしてしばらくの間をおいて、夫は女にささやいた。

「あのさ。オレと、結婚してくれて…、ありがとな」

その瞬間、女は経験した事の無い幸せの光に包まれた。そしてその暖かで柔らかな光に導かれるように、聖なる微笑みを夫に送り返した。愛とともに。微笑みを、微笑みを…。
「しまった!」
女が現実に気がつくのに0.1秒もかからなかった。目の前の愛する髭男爵の目線が、自分の瞳からゆっくりとはずれて、右下に下がり、口元を見つめているのだ。

男の目の前にはいつもと違う女がいた。いつもくだらない冗談を言って笑い合った見覚えのある女の笑顔の一部分に、昨日までは無かったまばゆい輝きを放つ物質がはまっていたのだ。女の八重歯にはまっていたのは…、一本の金歯だった。


時間はさかのぼる。
祖母の仏前での祈りを終えた女は、とても静かで落ち着いた気分になっていた。そして、やさしかった祖母との思い出の一部を、新しい生活に持って行こうと思いついた女は、仏壇の小さな引き出しをカラッと開けた。するとそこには一本の金歯がしまわれていた。女の脳裏に、やさしく子守唄を歌ってくれる祖母の口元の金歯がよみがえった。
なぜそうしたのかはわからない。女は恐る恐る金歯を歯にはめてみた。驚く事に金歯はぴったりだった。まるで最初から女のために作られたかのような完璧さで歯の間におさまった。
女はしばらく考え込んでいたが、やがて金歯をポケットにしまい、身支度を整えた。


夫は目の前で微笑む金歯の花嫁に一瞬驚いたように目を見開いた。女はその夫の表情の変化に耐えきれなくなり、後悔と共に目をそらそうとした。しかし、次の瞬間、夫は何も言わずに花嫁を優しく抱き寄せてキスをした。今までになかった位、そしてこれからもないであろう程に完璧に。女の目からは自然に涙がこぼれ落ちた。

そのキスはその後、列席者の間で『黄金のキス』と呼ばれて語り継がれた。その話は爆笑と感動が同居する鉄板話として誰もが愛した。そしてその後、女は金歯を溶かして指輪にし、結婚指輪と並べて薬指にはめて幸せに暮らしたという。

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