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賢さについて

小学生の頃より賢くなったと思っていた。語彙は格段に増え、難しい言葉で話すようになった。
最近小学生や中学生を教える機会がある。そんな時簡単な言葉が通じない。例えば、統計とか条件とか。そんな時は噛み砕かないといけない。けれど、当たり前に使っている言葉をさらに端的に伝えることは難しい。少なくとも私はそう感じる。そして思うのだ、自分は賢くなったのではなくて、単に話す生きるフィールドが変わっただけではないかと。
極端に言うと、私たちは日本語を忘れて英語を覚えただけなのだ。日本語話者を馬鹿にするのはあまりに滑稽だ。私たちはバイリンガルにならなければならない。
子供が言葉の意味を尋ねるとき、私たちは彼らが理解できるように説明できなければ、けして賢いとは言えない。
脳の作りにも同じようなことが言える気がする(あんまり詳しくないけど)。ニューロンという脳の細胞がシナプスで接続されているわけだが、3歳頃まで接続は増え、そこから不必要な接続はなくなっていくらしい。つまり使ってきたシナプスだけが残る。何かする上で、必要な接続だけが残っている方が、効率的ではある。しかし一方で、発想(ニューロン同士の接続)は固定化されてしまう。
さて、大人の脳と子供の脳どっちが賢いと言えるだろうか。
単純にどっちも使えた方が良いし(可能かはわからないけど)、それが賢さだと思う。
賢さは定義によってもちろん変わってくる。知識の豊富さだったり、処理能力の速さだったり。しかし本来、豊富は欠乏を包括し、速さは遅さを包括する。私たちが賢くなろうとする方向性は間違っていない。けれど、賢くなったと思い込み、欠乏や遅さをないがしろにしたとき、賢さは失われると思われる。賢さとはどのフィールドでも生きられる能力かもしれない。

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